5.政教分離の疑問


 政教分離の原則は、政治と宗教が結びついてはならないということを意味する。ヨーロッパでは政教分離の法律がしっかりとあるが、日本国憲法においては明確に政教分離といった言葉が記されているわけではない。それでも、憲法20条「信教の自由」によって同等の意味合いが含まれているが、完全に代替しているとはいい難く、あくまで補完レベルだと認識している。

 政教分離が始まったのはフランスで、当時キリスト教がフランス国家の実権を握っていたが、国民の力でその権力を取り戻した。それが1789年「フランス革命」と呼ばれ、この市民革命は次第にヨーロッパ各地へと飛び火した。やがてこの思想を日本も取り入れることになった。
 しかし例外として、ドイツではキリスト教が国の権力と一致しているのが前提として社会が成り立っているという事例もあるというのは付け足しておかねばならないだろう。

 しばしば創価学会もこの「政教分離」に違反しているのではないか、という指摘を受けるだろう。確かに法律上は、国側からの宗教への関与がなければ合法となるので、創価学会がいくら公明党の支持母体であると認め、全面支持を表明しても違法にはならない。ただ、公明党票獲得のための過度な選挙活動はかなりグレーゾーンだろうし、実際に行き過ぎた個別勧誘などで違法者を出してもいる。

 ここで個人的に疑問を抱くのは、公明党が与党であるとき、「国側からの宗教への関与」にあたるのではないかということである。どういうことかというと、与党とは国会の過半数を占めているわけだから、憲法改正などの際にとうぜん有利な立場にある。政権を取ること=与党は、国家権力の有利な立場に着くということだから、必然的に自分自身(創価学会)が不利になる制度(たとえば宗教法人非課税など)の見直しが国会で議論されたとしても、公明党は反対側に回ることはありえないだろう。もっと言えば、公明党が単独で政権を取った場合、その党のなかから内閣総理大臣が任命されるのであり、そのときはすでに「政教分離」を侵していることと同義なのではないか。

 一部では創価学会は国を乗っ取ろうとしているという陰謀論もささやかれている。それはいささか恐れすぎであろうとは思うが、単純に笑い流せるものでもまたないのである。私は残念ながら「池田会長全集 第1巻」を所持していない(Amazonで中古が3千円だった)ので真偽を断定はできないが、信憑性は高いと思われるので、池田大作の発言を引用してみることにする。

 『「創価学会を離れて公明党はありえない。もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既存政党となんら変わることのない存在、創価学会公明党は永久に一体不二の関係。』(池田会長全集 第1巻) ソース元http://sk-bunri.jp/ 「政教分離を考える会」より。

 このように、「創価学会公明党は永久に一体不二の関係」と池田自らが公言している。すでに与党政権時代は自公連立によって実現されている。つまり、すでに「政教分離」を侵してしまっていると自ら公言しているようなものではないのか。この発言をどのように正当化できるのか、私にはほんとうにわからない。

 「宗教法人」に認定されると税金はもちろんのこと、不動産取得税や固定資産税も免除されるので、会館を建てても維持費がほぼかからない。ここで信者を育成し、選挙期間中には宗教活動の一環として無償で選挙活動を行うので法律にも違反しない(法律では規定の金額内で選挙活動員を雇うことは認められている)。このような選挙活動のすえ、最終的に公明党が政権をとった場合、それはすでに「政教一致」してしまう。その時点で、実質「国を乗っ取っている状態」とも言えるのだが、そのときはすでに権力が入れ替わっている状況なので、国民が批判しても手遅れのように思う(民主主義では人民が政治家を決めるのだから、国を乗っ取る政党を支持したのは自業自得という論理。もちろんフランス革命では、ルソーの「一般意思」の概念がこの理論を転覆させたのだが、日本にそのような思想は根付いていない)。それが仮に善意であったとしても、そういう論法は理念から間違っていると思う。なぜなら、それは単一化を容認することであり、ヒットラーを生んだ独裁的な全体主義ファシズムの構造となんら代わることのない思想だからだ。もしこれが<広宣流布>の実態であるならば、それはすでに「誤り」であったと歴史が証明している。

 「政教分離」批判での反論の多くが「法律に違反していない」、「現に何も問題などないではないか」という主張があると思う。しかし、宗教はそもそも法律などを盾に、みずからを主張するものではなく、もっと原理的な理念の下で成り立っているものだろう。法律とは時代と共に常に塗り変っていくもので、法律を盾にする思考は、正に資本主義(虚構)の中で根ざした(と思っているだけの根無し草)の<信仰>として納得がいく。
 さらに、その反論に突っ込めば、そもそも牧口や戸田は、違法者として牢獄に入れられているではないか。いわば、犯罪者が初代、二代目の会長を努める犯罪者宗教団体とも言えるのではないか。このような指摘がなされたとき、先ほどの反論はつじつまが合わなくなる。あれは正しかったと後からいっても、そのときの罰則が消えるわけではない。
 しかし、さらにもう一度反転してみずからの反論に返答すれば、その処罰が下ったからこそ、結果として牧口の理念が人々に広まったのではないか。ということは、違法か合法かという問いは意味をなさないことになる。本質は、牧口の牢獄に入れられてまで、国家権力に抵抗した市民側としての一貫性を持った理念に人々が共感したからではないか。その理念とは、フランス革命で人民側が勝ち取った、「自由の権利」に近い初期衝動だといえるのかもしれない。
 池田大作が頻繁に口にする「人民のための社会」とは、つまり民主主義の権利のことである。であるならば、フランス革命で勝ち取った人民の「自由の権利」である「政教分離」の理念を、今度は創価学会みずからの手で法律の網目を掻い潜り、侵そうとしているように見えてしまうこの行為を、牧口が見たなら、彼はいったい何と言うだろうか。

 「一切の絆から離れて自分の意見をはっきり主張する人間がいないかぎり、日本が近代国家として立派に発展することは不可能であるとわたしは思う」と梅原猛が言うように、肥大し、硬直化した創価学会という絆から一切離れて、自らの意見で、自らの頭を使って、発言することが必要なのではないか。自らを省みない傲慢な宗教へ、または傲慢な人間へと成り果ててはいないだろうか。自問自答を忘れ、上の者の言う言葉にただ流され、思考停止してはいないだろうか。すでに教化(洗脳)されてはいまいだろうか。そのような態度を保つには常に外部からの指摘を受け容れること、つまり、「多様な価値観」に触れ、新しい考え方、知識を得ることが防衛策となるだろう。
 創価学会という小さな枠内だけでの生活は、多角的に物事をみることができない思考回路の隘路へ迷い込むことになるだろう。グローバル社会を生き抜くには、その思考は致命傷となる。

 かんたんな例を出してみよう。例えば、ここに「円形状」の物体があるとする。<真実>は何かと尋ねたとき、創価学会なら「円だ」と自信を持って口にするだろう。
 しかし、それはある一面からの事実認識でしかなく<真実>ではない。創価学会の説く宗教観(牧口の著書「価値論」の主題である利善美への反論ともなる)も同様に、ある<真実>の一面を顕してはいるが、それだけが<真実>ではない。
 「真実」を知るということは、多角的(多様)に物事を捉えることである。「円形状」は、ある<真実>の一側面ではあるという認識の下で視点を変えてみればよい。
 たとえば、正面、側面、上面の三面図のように、たった三つの視点から見てみるだけでも<真実>の外観はぐっとクリアになる。
 一側面からは「円」だと思っていたものが、三つの視点(三面図)で見れば、それが「円柱状」であったことがわかった(とする)。
 このように、たった三つの視点を持つだけでも最初の「円」という<真実>からはかけ離れる。なので、視点を多角的に増やしていけばいくほど、<真実>に漸近することができる(人間には限界があり、人間の知りえる範囲内での<真実>には近づくことは可能だろう)。

 仮に三つの視点からみた「円柱状」の物体の<真実>が、「柱(はしら)」であったと過程しよう。しかし、単に「柱」といってもさまざまで、大きさ、太さ、素材や装飾、色など、厳密に述べようとすればそれだけ視点が必要となる。
 また、それを「柱」と認識するには、その「円柱状」の物体が、また別の天井(平面)を支えているという情報(視点)が必要になる。「柱」とはそれが何かを支えていることによって、「柱」足りえているからだ。
 さらに「柱」は永久的なものではないので、やがて劣化し崩れる。崩れた「柱」は支える役目を失えば、「柱」ではなくなる。その素材がコンクリートなら、たんなる「コンクリートの残骸」という<真実>へ姿を変えてしまう。また時間軸を加えれば、過去の情報により、たんなる「コンクリートの残骸」は、「柱の残骸」へと変わる。
 このように、俯瞰して対象物以外の情報を得ることによって、大きさや場所などがわかり、逆に近づけば素材や細かなデザインがわかるかもしれない。さらに時間軸を足せば対象物の変容により真実が移り変わることがわかることもあるだろう。

 要約すれば、多角的な視点を増やすことにより<真実>はよりはっきりと姿を表す。
 つまり、否定神学的に捉えることによって<真実>により近づくことができるという皮肉でもあり、決して神学的な単一視点では<真実>は(思い込むことはできるだろうが)捉えることができない。ここでも多角的な視点が必要なのがお判り頂けると思う。