1.とてもシンプルな問い 

 この文章は、これまで自分の考えてきたことを一つにまとめたものである。
 言うまでもなく、個人の思想、発言、文章は、「思想・良心(信条)の自由」(日本国憲法第19条)、「信教の自由」(20条)、「言論の自由」(21条)に当てはまるもので、同時に、国際人権規約の「自由権」にも重複する基本的人権であるということを理解してもらいたい。

 まず、脱会に際して少なからず関係のある者には自分の考えをはっきり伝えておいた方が、あらぬ憶測がひとり歩きするよりは、まだ良いだろうと考えた。
 断っておくが、この文章に対する反論も返答も必要としないし、議論をしたいわけでもない。ただ、いま言った、基本的人権からなる「多様な考えかたを認める」というごく当たり前のことだけが主張であるということだけ強調しておき話しを進めたい。
 しかし、ここで大きな問題点が浮上する。どういうことか。基本的人権からなる「多様な考えかたを認める」ということは、創価学会の教えの根本である<折伏>に反することになるのではないか、という疑問である。長くなるので先に結論を述べることにしよう。

 創価学会の根本の信心とは、<折伏>と<広宣流布>であるといって異論はないだろう。個人レベルでの<折伏>、そして、組織レベルでの<広宣流布>、どちらも創価学会の教えを広める行為という意味合いにおいて一致する。双方を大きく括り、「対話」とも呼んでいる。

 <折伏>とは、かんたんに言えば、創価学会の思想は唯一無二なので、それ以外の考えはすべてまちがった思想であるがゆえに、学会の考えと異なれば強い態度でそれを否定し、学会の教えのみがこの世の絶対的真理であると熱く説き、入信へと導く精神である。
 そして、<広宣流布>とは、創価学会の教えを全世界に広め続けることのみが唯一の世界平和の道であり、その闘いに勝利することが真の幸福への道である、と扇動的に説く教えである。

 上記で述べたように、創価学会の思想とは、「思想・良心の自由」を認めよう、多様性を認めよう、という人間の根本的な条件を守る基本的人権の対極に位置する思想なのではないのか、という疑問が湧いてくるのを理解できるだろうか。

 大事なところなので繰り返そう。<折伏>とは端的に言ってしまえば、「他人の意見を全否定して、創価学会の教えをゴリ押しする信仰」であると言えるのであれば、基本的人権である「思想・良心の自由」を侵していると解釈できる。
 また、<広宣流布>は、創価学会の教えを全世界、全民族まで広めようとする行為であり、これを突き詰めれば結局のところ、他の宗教は淘汰されてしかるべき、という思想に行き着いてしまう。こういった思想ではとうぜん、「多様性を認める」思想とは正反対の、「単一的な思想」へと向かうことになる。よって、基本的人権である「自由権」を侵しかねない行為であると言えるだろう。
 この二律背反(矛盾)をどう受け止めればよいのか自分にはさっぱりわからない。大きな結論はたったこれだけである。

 「多様な思想を認める」寛容さがあるのであれば、創価学会の根本の思想であるとされる<折伏>は意味を成さないし、<広宣流布>は絵空事にしかならない。このアンチノミーパラドックス)に誰がどのように答えうるのだろうか。
 この論点ですでに話しが噛み合いそうになければ、ここで読み終わることをお勧めする。