4.宗教とは何か

 高度成長期には仕事が溢れた。下層の人々にも仕事が行き渡った。生活保護受給者の数も少ないのでみんなとやかく言わない。そもそも、バブルの中で働いていたほうが儲かるからだ。しかし、そんな幸福な時代はひとときでしかないという主張はすでに述べた。

 いまヨーロッパでは失業率がひどい。とくに若者の失業率は深刻である。そのような人たちに創価学会の言う、「人間革命」などの言葉を、キリスト教が日常生活に根付いている人々にどのように説くことができるだろうか。また、それがどれだけ効果的なのだろうか。イス取りゲームでは必ず一定数が座れないように、そもそもパイの数が減っている状況では現実的に雇用口を増やさなければ問題は解決しない。雇用拡大には国の経済成長や経済政策が必要不可欠である。そこにはきわめて現実的な問題が横たわっていて、けっして精神論でどうにかなるものではないだろう。
 また、アフリカの餓死直前の子供たちを目の前にして、「題目すればすべてが叶う」などと真顔で言えるだろうか。そもそもアフリカの人々に、日蓮大聖人の素晴らしさをどのような言葉で、どのように伝えられるのだろうか。他国の歴史に出てくる紋切り型の英雄像に魅力を感じるだろうか。
 さらにいえば、シリアやイラクなどの宗教紛争で情勢が泥沼化した社会のなかで、「世界平和」を正義感たっぷりで口にすることに、どれほどの空虚さが伴うかは想像に難しくないはずだ。
 日本に引き戻していえば、東日本大震災津波により被災し、家族を亡くした人を目の前にして、はたしてどのような顔で「成功」や「勝利」を語りうるのだろうか。
 そのような状況下では宗教が必要になる。しかし、それは創価学会が教える宗教を意味しない。

 キリスト教(信者約20億人とも)やイスラム教(推定11億人とも)がなぜあんなに巨大なのか。それは何度も国家間での戦争を繰り返してきた歴史があるからではないか。たとえば、第一次世界大戦ではドイツ国内だけで二千万人近い死者を出している。
 幾度も人々が殺戮され、ホロコースト(大量虐殺)が行われ、国を侵略され、母国語を失い、文化は消滅し、奴隷とされ、植民地となり、混血となっていく。そんなときに希求する<信仰>とはいったい何であろうか。突き詰めれば、救い<救済>でしかないだろう。

 キリスト教の基本理念は、「救済」であるといえるだろう。この点において、キリスト教の根底の理念は(絶対的に)正しいのだ(と私は思う)。時代と共に変化しつつも、根本的な思想(旧約聖書新約聖書)は一貫しており、時代が変化しても普遍である<救済>の理念をしっかりと掲げる宗教を世界中で20億人余りが信仰しているというのも頷ける。

 言うまでもなく、創価学会に救いの思想はない(戦後間もないころには少なからずそのような役割は果たしてきたのかもしれないが、残念ながら理念の核となる部分にそのような言葉は掲げていない)。なぜならば、高度成長期に救いの必要な人は少数なので、可視化せずに済んだ。「成功」や「勝利」などと言って、目の前の自分の欲望にだけ忠実に生きられたのだ(これは皮肉でも何でもなく、日本がとても幸福で平和な時代だったのだと思う)。
 「勝利・成功」は右肩上がりの時代には、大衆にとって幸福な言葉に響く。しかし、長期的な世界規模で見れば、地球で暮らしている以上はゼロサムゲームでしかないと言えよう。成功した人の下には無数の敗者がいる。勝利と敗北は背中合わせでしかない。バブルははじけ、また別のところでバブルは起こる。それが資本主義のルールであると思う。また、「勝者をカリスマ的にあつかっても、永久に勝ち続けることは不可能(人はいずれ死ぬ)」とは元オウム、現「ひかりの輪」代表の上祐史浩の言葉であるが、先入観を持たずに文章レベルで考えれば、この指摘は充分に的を得ていると言えるだろう。
 創価学会では「勝利・成功」を謳いながら他方で「敗者・失敗者」は信心が足らないと切り捨てる。これも資本主義でよく言われる「自己責任」と同等の責任逃れの意味しか持たないだろう。
 ひとつ例を挙げれば、創価学会内でなにか勝負すれば、絶対に信者の中から敗者が出てしまう。これは社会の中と同じルールでしかない。そのような拝金主義的な信仰は、資本主義となんら変わらない。がんばれば報われるのが民主主義の理念であり、題目をあげれば成功するのは創価学会の理念であり、どちらも同じような意味としてしかとれない。また、成功しなければ資本主義では「自己責任」とされ、創価学会では「信心が足らない」となるわけで、どちらも責任を取らないという意味で同じだ。しかし、宗教が無責任ではたして良いのだろうかと率直な疑問がわく。思うに、宗教の本質は敗れたもの、敗者を救う側にあるのではないだろうか。

 キリスト教の「救済」の理念とは、アダムとイブから続く原罪とも言えるもので、人はイエス(救世主)ではない以上、生きているかぎりにおいて、少なからず罪を侵してしまう罪人でもあり、罪そのものはこの世にはあるが、人そのものが罪深い「悪」ではないという考え方なのだと解釈している。
 このように弱者の救済と同時に、どうしようもない罪人もまた救ってしまうことも孕むのだが、この包容力が宗教の許容力でもあるのだろう。そのような許容力は、先ほど述べた歴史的に理不尽で悲惨な人生を強いられて来た人民の精神面でのセーフティネット<救済>の役割として発展してきたものだとも言えるだろう。そう考えれば、日本のセーフティネットの脆弱さや、年間3万人が自殺してしまう異常な社会で必要とされているものは、制度面でのセーフティネット(救済政策)はもちろんのこと、精神面でのセーフティネット(宗教・哲学による救済)としての観点からも考えなければならないのかもしれない。

 結論としてまとめると、<信仰>の本質は、自らの欲望を物質化することで見返り(成功・勝利)を得る(ゲゼルシャフト“利益社会”)と説くことではなく、物質化、数値化できない<救済>の役割こそが本質であろう。むろん、救いなどは目に見えない。なぜなら、その人個人の境遇からくる(身体を伴った)精神上の救いだからである。
 (身体を伴った)精神、すなわち“こころ”とは目に見えないし、物質化・数値化できないものである。つまり、悲しみや苦しみや喜びや幸せなどという感情は、物質化・数値化できないからこそ、尊いものなのである。<信仰>の尊さとは、勝利や成功を物質化(目標達成)させることにあるのではなく、どうしても物質化・数値化できない、「形に還元できないもの」としてあるべきだろう。

 創価学会の掲げる信心は、本当に<信仰>を必要としている者の、<救済>を阻害しかねない。事故など危機のとき、まず誰から救出するべきかといえば、とうぜん「子供・妊婦」から、というのは、社会の共通前提としてあるだろう。これが、(精神を伴った)身体上の弱者の救済=「子供」“未来”であるといえよう。であるならば、(身体を伴った)精神上の弱者の救済=“絶望感”を抱えた者、であるという主張も大筋で合意を得られるのではなかろうか。補足すれば、(身体を伴った)精神の<救済>とは、「身体的なハンディキャップまたは精神的なハンディキャップ、また、環境や境遇からくる、死を直視せざるを得ない立場に立たされた者」を救うことだと定義しているつもりである。そういう意味において、本質的に救いを必要としないものが、物質化した欲望(勝利・成功)のために<信仰>を乱用するのであれば、それはもう宗教とは呼べないだろう。なぜなら、その行為が究極的に<救済>を希求する者の首を絞めつける行為となるからだ。私たちはその行為に自覚的でなければならない。身体的な危機には未来ある子供を身体的に救うように、精神的な危機に、未来がないとしか思えない状況の者を精神的に救うべきではないだろうか。このような思想の下で物事を考えるのであれば、やはり創価学会の掲げる<信仰>は、自己啓発であり、ヘルスケアであるが、宗教とは呼べないのではないか、と言い続けなければならない。 いわば、この文章はそこのみに抵抗する行為である。

 身体を伴った精神の<救済>とは、千差万別であり、老若男女問わないものである。たとえば、「私のこの苦しみは、あなたには絶対に理解することはできない」と思うことと、ひるがえって、「何があなたにとってほんとうの救いになるのか私にはわからない」と思うことを前提とすることから始めるということである。この逆説的な「誠実さ」を理解しなければなるまい。
 すなわち、理念として、まるっきり理解できない他者を、キ〇ガイと言って主観的に切り捨てるのではなく、理解できないことを理解(しようと)する=「多様な価値観」を救える(認める)宗教こそが<信仰>に値するのではないか。
 時代と共に淘汰されるものと、普遍的妥当性を持ち必要とされ続けるものとにやがて収斂されていくだろう。