続―脱会の動機

 優れた知識人は原発反対・賛成どちらとも問わず、自らの主張を述べた(ネット上にデータとしていつまでも記録されているので調べればわかるだろう)。それは(妄信であったがゆえ無知な)国民へ事態を正しく知らす必要があるという問題意識や、(間接的にしろ、そういう社会をつくっていた)責任感から生じた発言だったと思う。原発放射能の問題は、いまでも議論が絶えず、さまざまな意見や誹謗中傷があるので、発言者はそれなりの覚悟が必要となる。
 そもそも放射能は、人間ひとりの生涯では到底責任を終えるような時間の尺度ではないので、簡単な答えなどないのが前提となる。したがって、思想が露呈する問題(政治的)にならざるを得ない。問題意識や責任感それに加え、発言に裏打ちされた知性が必要となる。これらを踏まえた上で能力ある人物は発言する。そのリアルタイムでの発言(透明性)は、現代社会ではとうぜん高く評価される。一例として、反原発を唱えたソフトバンク社長の孫正義について書いてみよう。

 2011年4月3日に東日本大震災に個人で100億円寄付すると発表。
 また、引退するまでソフトバンク代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明。
 福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立。
 『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立。
 脱原発に向け、再生可能エネルギーの事業としてメガソーラー(太陽光発電)計画を唱え、現に2012年に京都で一基が稼動。また同年7月に群馬でも稼動した。年内に5ヶ所での稼動を目標としている。

 どうだろう、素晴らしい行動力と実行力ではないか。もちろん反原発だから絶賛しているというわけではない。そもそも原発推進か反原発かという単純な二極論は事態を悪化させるだけだろう。

 ここで言いたいのは、震災以後の問題意識を明確に表明し、素早く実行に移した好例として出したまでだ。孫正義の震災後の行動と決断は、リアルタイムでつぶやくSNSサービス「ツイッター」(社員全員に登録を指示している)で連動して行われ、さまざまな思いや決断がその場その場で形となっていく過程を開かれたリアルタイムの場で知れるというのは、透明性がきわめて高く、それは信頼(または落胆)へ直結する。
 個人的に孫正義を尊敬しているが、神格化などしないし、他の孫正義の発言もすべて鵜呑みにして信じるなんてことはしない。ただ、これからも彼の発言や行動に期待している分、その都度彼の言動を監視し、自分の頭で考えた評価を下していくだけだ。

 ちなみに、創価学会義援金は5億4000万円である。池田大作個人での寄付は表に出ていない(ちなみに年収は1〜3億円と言われている)。柳井(ユニクロ社長)は個人資産10億を寄付。会社含めると総額約21億円になる。三木谷(楽天社長)は個人資産10億を寄付。イオン30億、ソフトバンク10億、コカ・コーラ食品は6億、三菱商事4億などなどある。
 今述べた企業や個人は、義援金の大小に関わらず評価できるのだが、創価学会だけは5億4000万円という高額の義援金を出していたとしても評価できない異質な立場にあるということを説明したい。

 上場企業というのは営利目的なので、株主が存在する。株主とは、その企業の成長発展を期待してお金を投資する人々のことを指す。そして、企業は集まった投資家たちからの資金を事業発展のために有効活用し、売り上げを伸ばすことに努める。常々、「会社は誰のもの?」という問いに、「株主のもの」と答えるのはこの為である。したがって、企業は四半期ごとに業績を公開し、さまざまな財務諸表を投資家へ開示(ディスクロージャー)するのである。つまり、資金の透明性(コーポレートガバナンス)が信頼条件であり、必要不可欠であるというのが現在のグローバル資本主義の前提なのである。
 しかし、創価学会は宗教法人(非営利)なので、資金の流れが不透明でも法律上問題とならない。宗教法人で得た利益には税がいっさいかからないし、寄付と称されるお布施なども、すべて非公表で良いのだからとうぜん、創価学会の総資産がいったいいくらあるのか誰にもわからない(噂では数兆円とも言われている)ため、不透明で反グローバル的といえるだろう。

 そういうわけで、企業の義援金額の評価は、その企業の総資産や純利益などを見れば誰でもわかるので、「この企業は稼いでいるわりに額は少ない」、「赤字続きなのに良くやっている」というような評価ができるのだが、創価学会のような宗教法人の義援金の評価は資産が非公表(不透明)なため、そもそも評価する基準がみえないのだ。公表の義務は法律上ないが、公表する自由はあるのに示さない。つまり、透明性が増せば信頼が高まる時代に、不透明で不信を抱く道をみずから選んでいるといえる。なので、この件だけに関して言えば、創価学会義援金は額に関わらず、義援金を出したという行為のみでしか評価できない。ただ5億円という額に「すごい」と反応してしまうのは、あまりに単純で、そこには何がどうすごいのかの根拠は一切ない。それを肯定してしまえば、世の中はお金がすべてだという誤った価値観を認めることになってしまう。私の親は幹部や公明党議員は最低限の収入で学会のために努力していると思っているようだが、参考サイト(http://kanbusyotoku.99k.org/)によれば、幹部は年収3〜5千万円と大変裕福な暮らしをしているようだ。ちなみに参考サイトには、幹部の名前と納税額が記載された税務署の書類が載っている。

 少し話が逸れたので原発問題に戻そう。質問はいたって明解だ。原発「反対か賛成」これだけである。「あなたはどっち?」という問いに、周りの空気を読んだり、流されたりして、当たり障りのない発言をするのではなく、みないっせいに「せいの」で答えればいいだけだ。そうすることによって、ようやく多様性は生まれるだろう。創価浄土真宗も小さな島国で乱立した仏教の派生の派生でしかない。卑近な仏教信者たちのちっぽけな差異から生じる、見栄や憎悪や優越感により自意識を保つ必要などない。そもそも仏教は、インドで始まり、アジア、中国を経て、ようやく日本に広まった輸入ものの宗教でしかない。「南無妙法蓮華経」を絶対と言ったところで、漢字(英訳:Chinese character“チャイニーズ・キャラクター”)は中国からの輸入物でしかない。

 原発問題は友人関係や家族関係を分断するほどの大きな問題となった。池田大作と同じように、多くの人が沈黙した。創価学会は立場を明確にできなかった。これは紛れもない事実である。発言者たちは対立し、多様な意見が生まれた。そして、この対立こそが思想の違いであり、哲学の違いであり、宗教感の違いなのである。私たちの近代の生活はいうまでもなく、電気の力によって支えられてきた。その多くの電気エネルギーは原子力発電によって賄ってきた。しかし、原発の危険性や廃棄物処理の問題などに関心を向けるものはほとんどなく、政府、マス・メディアによって塗り固められた「安全神話」を妄信していた。つまり、原子力発電によって成り立っていた近代社会を盲目的に信仰(妄信)していた。しかし、3月11日を機に、「安全神話」はあっけなく崩壊し、原子力エネルギー<信仰>の呪縛は解け、残ったのは、無知で利己的な個人の集まりだった。そのことを私はずっと恥じている。

 原発問題は創価学会でも誰でも答えを出せない。なぜなら、これは「文明災」であるからだ。文明とは、進化している過程の現在の問題であり、未来はだれにもわからない。この文明を生きながら新しい流れをひとつひとつ創ることでしか答えは導き出せない。つまり、あなたはどっちの道を選ぶのか?という思想の問いなのである。宗教がビジョンを示せなかったいま、そもそも日本には宗教など根付いていなかった、と考えるべきではないだろうか。言うまでもなく「いっせいの」で答えたなら、天理教の信者も、浄土真宗の信者も、創価学会の信者も、「〇〇宗教」という窮屈に固定された枠を超えて、みなをばらばらにしてしまうだろう。
 それが何度も言う多様性である。
 認めるとは、他者を理解しようとする態度のことである。

 この地震で人間は自然の前では無力だということを改めて実感させられた。もう本質的な話し抜きではまともに話せないな、と思ったので、宗教そのものの「嘘」を前提すること、すなわち、社会学者、宮台真司の言葉を借りれば、『島宇宙化/蛸壺化』した創価学会というゲームから完全に降りる決断(リセット)をしたわけだ。

 9.11を境に実家を出たくなり一人暮らしを始め、3.11を境に自らの意見、立場を明確にすべきだと感じた。3.11以降、個人の生き方や考え方の転向を余儀なくされた。そんな感じがざっくりとした脱退の動機となる。
 ちなみにいま名前を上げた宮台真司は、9.11直後に「このテロはアメリカの自業自得である」とネットメディアではっきりと口にしていたし、3.11の大震災前から原発の病理に言及し、再生可能エネルギーの必要性を説いていた。3.11後も政府の非難区域の拡大を批判した。理由は、リスク管理とはそもそも大きくとって縮小していくものだから、非難区域も予測以上に大きくとって次第に小さくしていくべきだったという主張だ。ご存知のように、政府の対応は真逆だった。
 宮台真司はこのように事件後すぐに発言をし、論理的な主張を積み重ねているがゆえ、信頼に値する。このような過去からの発言の一貫性などと照らし合わせて創価学会を正当に評価・批評していることを理解して頂きたい。