4.宗教とは何か

 高度成長期には仕事が溢れた。下層の人々にも仕事が行き渡った。生活保護受給者の数も少ないのでみんなとやかく言わない。そもそも、バブルの中で働いていたほうが儲かるからだ。しかし、そんな幸福な時代はひとときでしかないという主張はすでに述べた。

 いまヨーロッパでは失業率がひどい。とくに若者の失業率は深刻である。そのような人たちに創価学会の言う、「人間革命」などの言葉を、キリスト教が日常生活に根付いている人々にどのように説くことができるだろうか。また、それがどれだけ効果的なのだろうか。イス取りゲームでは必ず一定数が座れないように、そもそもパイの数が減っている状況では現実的に雇用口を増やさなければ問題は解決しない。雇用拡大には国の経済成長や経済政策が必要不可欠である。そこにはきわめて現実的な問題が横たわっていて、けっして精神論でどうにかなるものではないだろう。
 また、アフリカの餓死直前の子供たちを目の前にして、「題目すればすべてが叶う」などと真顔で言えるだろうか。そもそもアフリカの人々に、日蓮大聖人の素晴らしさをどのような言葉で、どのように伝えられるのだろうか。他国の歴史に出てくる紋切り型の英雄像に魅力を感じるだろうか。
 さらにいえば、シリアやイラクなどの宗教紛争で情勢が泥沼化した社会のなかで、「世界平和」を正義感たっぷりで口にすることに、どれほどの空虚さが伴うかは想像に難しくないはずだ。
 日本に引き戻していえば、東日本大震災津波により被災し、家族を亡くした人を目の前にして、はたしてどのような顔で「成功」や「勝利」を語りうるのだろうか。
 そのような状況下では宗教が必要になる。しかし、それは創価学会が教える宗教を意味しない。

 キリスト教(信者約20億人とも)やイスラム教(推定11億人とも)がなぜあんなに巨大なのか。それは何度も国家間での戦争を繰り返してきた歴史があるからではないか。たとえば、第一次世界大戦ではドイツ国内だけで二千万人近い死者を出している。
 幾度も人々が殺戮され、ホロコースト(大量虐殺)が行われ、国を侵略され、母国語を失い、文化は消滅し、奴隷とされ、植民地となり、混血となっていく。そんなときに希求する<信仰>とはいったい何であろうか。突き詰めれば、救い<救済>でしかないだろう。

 キリスト教の基本理念は、「救済」であるといえるだろう。この点において、キリスト教の根底の理念は(絶対的に)正しいのだ(と私は思う)。時代と共に変化しつつも、根本的な思想(旧約聖書新約聖書)は一貫しており、時代が変化しても普遍である<救済>の理念をしっかりと掲げる宗教を世界中で20億人余りが信仰しているというのも頷ける。

 言うまでもなく、創価学会に救いの思想はない(戦後間もないころには少なからずそのような役割は果たしてきたのかもしれないが、残念ながら理念の核となる部分にそのような言葉は掲げていない)。なぜならば、高度成長期に救いの必要な人は少数なので、可視化せずに済んだ。「成功」や「勝利」などと言って、目の前の自分の欲望にだけ忠実に生きられたのだ(これは皮肉でも何でもなく、日本がとても幸福で平和な時代だったのだと思う)。
 「勝利・成功」は右肩上がりの時代には、大衆にとって幸福な言葉に響く。しかし、長期的な世界規模で見れば、地球で暮らしている以上はゼロサムゲームでしかないと言えよう。成功した人の下には無数の敗者がいる。勝利と敗北は背中合わせでしかない。バブルははじけ、また別のところでバブルは起こる。それが資本主義のルールであると思う。また、「勝者をカリスマ的にあつかっても、永久に勝ち続けることは不可能(人はいずれ死ぬ)」とは元オウム、現「ひかりの輪」代表の上祐史浩の言葉であるが、先入観を持たずに文章レベルで考えれば、この指摘は充分に的を得ていると言えるだろう。
 創価学会では「勝利・成功」を謳いながら他方で「敗者・失敗者」は信心が足らないと切り捨てる。これも資本主義でよく言われる「自己責任」と同等の責任逃れの意味しか持たないだろう。
 ひとつ例を挙げれば、創価学会内でなにか勝負すれば、絶対に信者の中から敗者が出てしまう。これは社会の中と同じルールでしかない。そのような拝金主義的な信仰は、資本主義となんら変わらない。がんばれば報われるのが民主主義の理念であり、題目をあげれば成功するのは創価学会の理念であり、どちらも同じような意味としてしかとれない。また、成功しなければ資本主義では「自己責任」とされ、創価学会では「信心が足らない」となるわけで、どちらも責任を取らないという意味で同じだ。しかし、宗教が無責任ではたして良いのだろうかと率直な疑問がわく。思うに、宗教の本質は敗れたもの、敗者を救う側にあるのではないだろうか。

 キリスト教の「救済」の理念とは、アダムとイブから続く原罪とも言えるもので、人はイエス(救世主)ではない以上、生きているかぎりにおいて、少なからず罪を侵してしまう罪人でもあり、罪そのものはこの世にはあるが、人そのものが罪深い「悪」ではないという考え方なのだと解釈している。
 このように弱者の救済と同時に、どうしようもない罪人もまた救ってしまうことも孕むのだが、この包容力が宗教の許容力でもあるのだろう。そのような許容力は、先ほど述べた歴史的に理不尽で悲惨な人生を強いられて来た人民の精神面でのセーフティネット<救済>の役割として発展してきたものだとも言えるだろう。そう考えれば、日本のセーフティネットの脆弱さや、年間3万人が自殺してしまう異常な社会で必要とされているものは、制度面でのセーフティネット(救済政策)はもちろんのこと、精神面でのセーフティネット(宗教・哲学による救済)としての観点からも考えなければならないのかもしれない。

 結論としてまとめると、<信仰>の本質は、自らの欲望を物質化することで見返り(成功・勝利)を得る(ゲゼルシャフト“利益社会”)と説くことではなく、物質化、数値化できない<救済>の役割こそが本質であろう。むろん、救いなどは目に見えない。なぜなら、その人個人の境遇からくる(身体を伴った)精神上の救いだからである。
 (身体を伴った)精神、すなわち“こころ”とは目に見えないし、物質化・数値化できないものである。つまり、悲しみや苦しみや喜びや幸せなどという感情は、物質化・数値化できないからこそ、尊いものなのである。<信仰>の尊さとは、勝利や成功を物質化(目標達成)させることにあるのではなく、どうしても物質化・数値化できない、「形に還元できないもの」としてあるべきだろう。

 創価学会の掲げる信心は、本当に<信仰>を必要としている者の、<救済>を阻害しかねない。事故など危機のとき、まず誰から救出するべきかといえば、とうぜん「子供・妊婦」から、というのは、社会の共通前提としてあるだろう。これが、(精神を伴った)身体上の弱者の救済=「子供」“未来”であるといえよう。であるならば、(身体を伴った)精神上の弱者の救済=“絶望感”を抱えた者、であるという主張も大筋で合意を得られるのではなかろうか。補足すれば、(身体を伴った)精神の<救済>とは、「身体的なハンディキャップまたは精神的なハンディキャップ、また、環境や境遇からくる、死を直視せざるを得ない立場に立たされた者」を救うことだと定義しているつもりである。そういう意味において、本質的に救いを必要としないものが、物質化した欲望(勝利・成功)のために<信仰>を乱用するのであれば、それはもう宗教とは呼べないだろう。なぜなら、その行為が究極的に<救済>を希求する者の首を絞めつける行為となるからだ。私たちはその行為に自覚的でなければならない。身体的な危機には未来ある子供を身体的に救うように、精神的な危機に、未来がないとしか思えない状況の者を精神的に救うべきではないだろうか。このような思想の下で物事を考えるのであれば、やはり創価学会の掲げる<信仰>は、自己啓発であり、ヘルスケアであるが、宗教とは呼べないのではないか、と言い続けなければならない。 いわば、この文章はそこのみに抵抗する行為である。

 身体を伴った精神の<救済>とは、千差万別であり、老若男女問わないものである。たとえば、「私のこの苦しみは、あなたには絶対に理解することはできない」と思うことと、ひるがえって、「何があなたにとってほんとうの救いになるのか私にはわからない」と思うことを前提とすることから始めるということである。この逆説的な「誠実さ」を理解しなければなるまい。
 すなわち、理念として、まるっきり理解できない他者を、キ〇ガイと言って主観的に切り捨てるのではなく、理解できないことを理解(しようと)する=「多様な価値観」を救える(認める)宗教こそが<信仰>に値するのではないか。
 時代と共に淘汰されるものと、普遍的妥当性を持ち必要とされ続けるものとにやがて収斂されていくだろう。

5.政教分離の疑問


 政教分離の原則は、政治と宗教が結びついてはならないということを意味する。ヨーロッパでは政教分離の法律がしっかりとあるが、日本国憲法においては明確に政教分離といった言葉が記されているわけではない。それでも、憲法20条「信教の自由」によって同等の意味合いが含まれているが、完全に代替しているとはいい難く、あくまで補完レベルだと認識している。

 政教分離が始まったのはフランスで、当時キリスト教がフランス国家の実権を握っていたが、国民の力でその権力を取り戻した。それが1789年「フランス革命」と呼ばれ、この市民革命は次第にヨーロッパ各地へと飛び火した。やがてこの思想を日本も取り入れることになった。
 しかし例外として、ドイツではキリスト教が国の権力と一致しているのが前提として社会が成り立っているという事例もあるというのは付け足しておかねばならないだろう。

 しばしば創価学会もこの「政教分離」に違反しているのではないか、という指摘を受けるだろう。確かに法律上は、国側からの宗教への関与がなければ合法となるので、創価学会がいくら公明党の支持母体であると認め、全面支持を表明しても違法にはならない。ただ、公明党票獲得のための過度な選挙活動はかなりグレーゾーンだろうし、実際に行き過ぎた個別勧誘などで違法者を出してもいる。

 ここで個人的に疑問を抱くのは、公明党が与党であるとき、「国側からの宗教への関与」にあたるのではないかということである。どういうことかというと、与党とは国会の過半数を占めているわけだから、憲法改正などの際にとうぜん有利な立場にある。政権を取ること=与党は、国家権力の有利な立場に着くということだから、必然的に自分自身(創価学会)が不利になる制度(たとえば宗教法人非課税など)の見直しが国会で議論されたとしても、公明党は反対側に回ることはありえないだろう。もっと言えば、公明党が単独で政権を取った場合、その党のなかから内閣総理大臣が任命されるのであり、そのときはすでに「政教分離」を侵していることと同義なのではないか。

 一部では創価学会は国を乗っ取ろうとしているという陰謀論もささやかれている。それはいささか恐れすぎであろうとは思うが、単純に笑い流せるものでもまたないのである。私は残念ながら「池田会長全集 第1巻」を所持していない(Amazonで中古が3千円だった)ので真偽を断定はできないが、信憑性は高いと思われるので、池田大作の発言を引用してみることにする。

 『「創価学会を離れて公明党はありえない。もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既存政党となんら変わることのない存在、創価学会公明党は永久に一体不二の関係。』(池田会長全集 第1巻) ソース元http://sk-bunri.jp/ 「政教分離を考える会」より。

 このように、「創価学会公明党は永久に一体不二の関係」と池田自らが公言している。すでに与党政権時代は自公連立によって実現されている。つまり、すでに「政教分離」を侵してしまっていると自ら公言しているようなものではないのか。この発言をどのように正当化できるのか、私にはほんとうにわからない。

 「宗教法人」に認定されると税金はもちろんのこと、不動産取得税や固定資産税も免除されるので、会館を建てても維持費がほぼかからない。ここで信者を育成し、選挙期間中には宗教活動の一環として無償で選挙活動を行うので法律にも違反しない(法律では規定の金額内で選挙活動員を雇うことは認められている)。このような選挙活動のすえ、最終的に公明党が政権をとった場合、それはすでに「政教一致」してしまう。その時点で、実質「国を乗っ取っている状態」とも言えるのだが、そのときはすでに権力が入れ替わっている状況なので、国民が批判しても手遅れのように思う(民主主義では人民が政治家を決めるのだから、国を乗っ取る政党を支持したのは自業自得という論理。もちろんフランス革命では、ルソーの「一般意思」の概念がこの理論を転覆させたのだが、日本にそのような思想は根付いていない)。それが仮に善意であったとしても、そういう論法は理念から間違っていると思う。なぜなら、それは単一化を容認することであり、ヒットラーを生んだ独裁的な全体主義ファシズムの構造となんら代わることのない思想だからだ。もしこれが<広宣流布>の実態であるならば、それはすでに「誤り」であったと歴史が証明している。

 「政教分離」批判での反論の多くが「法律に違反していない」、「現に何も問題などないではないか」という主張があると思う。しかし、宗教はそもそも法律などを盾に、みずからを主張するものではなく、もっと原理的な理念の下で成り立っているものだろう。法律とは時代と共に常に塗り変っていくもので、法律を盾にする思考は、正に資本主義(虚構)の中で根ざした(と思っているだけの根無し草)の<信仰>として納得がいく。
 さらに、その反論に突っ込めば、そもそも牧口や戸田は、違法者として牢獄に入れられているではないか。いわば、犯罪者が初代、二代目の会長を努める犯罪者宗教団体とも言えるのではないか。このような指摘がなされたとき、先ほどの反論はつじつまが合わなくなる。あれは正しかったと後からいっても、そのときの罰則が消えるわけではない。
 しかし、さらにもう一度反転してみずからの反論に返答すれば、その処罰が下ったからこそ、結果として牧口の理念が人々に広まったのではないか。ということは、違法か合法かという問いは意味をなさないことになる。本質は、牧口の牢獄に入れられてまで、国家権力に抵抗した市民側としての一貫性を持った理念に人々が共感したからではないか。その理念とは、フランス革命で人民側が勝ち取った、「自由の権利」に近い初期衝動だといえるのかもしれない。
 池田大作が頻繁に口にする「人民のための社会」とは、つまり民主主義の権利のことである。であるならば、フランス革命で勝ち取った人民の「自由の権利」である「政教分離」の理念を、今度は創価学会みずからの手で法律の網目を掻い潜り、侵そうとしているように見えてしまうこの行為を、牧口が見たなら、彼はいったい何と言うだろうか。

 「一切の絆から離れて自分の意見をはっきり主張する人間がいないかぎり、日本が近代国家として立派に発展することは不可能であるとわたしは思う」と梅原猛が言うように、肥大し、硬直化した創価学会という絆から一切離れて、自らの意見で、自らの頭を使って、発言することが必要なのではないか。自らを省みない傲慢な宗教へ、または傲慢な人間へと成り果ててはいないだろうか。自問自答を忘れ、上の者の言う言葉にただ流され、思考停止してはいないだろうか。すでに教化(洗脳)されてはいまいだろうか。そのような態度を保つには常に外部からの指摘を受け容れること、つまり、「多様な価値観」に触れ、新しい考え方、知識を得ることが防衛策となるだろう。
 創価学会という小さな枠内だけでの生活は、多角的に物事をみることができない思考回路の隘路へ迷い込むことになるだろう。グローバル社会を生き抜くには、その思考は致命傷となる。

 かんたんな例を出してみよう。例えば、ここに「円形状」の物体があるとする。<真実>は何かと尋ねたとき、創価学会なら「円だ」と自信を持って口にするだろう。
 しかし、それはある一面からの事実認識でしかなく<真実>ではない。創価学会の説く宗教観(牧口の著書「価値論」の主題である利善美への反論ともなる)も同様に、ある<真実>の一面を顕してはいるが、それだけが<真実>ではない。
 「真実」を知るということは、多角的(多様)に物事を捉えることである。「円形状」は、ある<真実>の一側面ではあるという認識の下で視点を変えてみればよい。
 たとえば、正面、側面、上面の三面図のように、たった三つの視点から見てみるだけでも<真実>の外観はぐっとクリアになる。
 一側面からは「円」だと思っていたものが、三つの視点(三面図)で見れば、それが「円柱状」であったことがわかった(とする)。
 このように、たった三つの視点を持つだけでも最初の「円」という<真実>からはかけ離れる。なので、視点を多角的に増やしていけばいくほど、<真実>に漸近することができる(人間には限界があり、人間の知りえる範囲内での<真実>には近づくことは可能だろう)。

 仮に三つの視点からみた「円柱状」の物体の<真実>が、「柱(はしら)」であったと過程しよう。しかし、単に「柱」といってもさまざまで、大きさ、太さ、素材や装飾、色など、厳密に述べようとすればそれだけ視点が必要となる。
 また、それを「柱」と認識するには、その「円柱状」の物体が、また別の天井(平面)を支えているという情報(視点)が必要になる。「柱」とはそれが何かを支えていることによって、「柱」足りえているからだ。
 さらに「柱」は永久的なものではないので、やがて劣化し崩れる。崩れた「柱」は支える役目を失えば、「柱」ではなくなる。その素材がコンクリートなら、たんなる「コンクリートの残骸」という<真実>へ姿を変えてしまう。また時間軸を加えれば、過去の情報により、たんなる「コンクリートの残骸」は、「柱の残骸」へと変わる。
 このように、俯瞰して対象物以外の情報を得ることによって、大きさや場所などがわかり、逆に近づけば素材や細かなデザインがわかるかもしれない。さらに時間軸を足せば対象物の変容により真実が移り変わることがわかることもあるだろう。

 要約すれば、多角的な視点を増やすことにより<真実>はよりはっきりと姿を表す。
 つまり、否定神学的に捉えることによって<真実>により近づくことができるという皮肉でもあり、決して神学的な単一視点では<真実>は(思い込むことはできるだろうが)捉えることができない。ここでも多角的な視点が必要なのがお判り頂けると思う。
 

1.とてもシンプルな問い 

 この文章は、これまで自分の考えてきたことを一つにまとめたものである。
 言うまでもなく、個人の思想、発言、文章は、「思想・良心(信条)の自由」(日本国憲法第19条)、「信教の自由」(20条)、「言論の自由」(21条)に当てはまるもので、同時に、国際人権規約の「自由権」にも重複する基本的人権であるということを理解してもらいたい。

 まず、脱会に際して少なからず関係のある者には自分の考えをはっきり伝えておいた方が、あらぬ憶測がひとり歩きするよりは、まだ良いだろうと考えた。
 断っておくが、この文章に対する反論も返答も必要としないし、議論をしたいわけでもない。ただ、いま言った、基本的人権からなる「多様な考えかたを認める」というごく当たり前のことだけが主張であるということだけ強調しておき話しを進めたい。
 しかし、ここで大きな問題点が浮上する。どういうことか。基本的人権からなる「多様な考えかたを認める」ということは、創価学会の教えの根本である<折伏>に反することになるのではないか、という疑問である。長くなるので先に結論を述べることにしよう。

 創価学会の根本の信心とは、<折伏>と<広宣流布>であるといって異論はないだろう。個人レベルでの<折伏>、そして、組織レベルでの<広宣流布>、どちらも創価学会の教えを広める行為という意味合いにおいて一致する。双方を大きく括り、「対話」とも呼んでいる。

 <折伏>とは、かんたんに言えば、創価学会の思想は唯一無二なので、それ以外の考えはすべてまちがった思想であるがゆえに、学会の考えと異なれば強い態度でそれを否定し、学会の教えのみがこの世の絶対的真理であると熱く説き、入信へと導く精神である。
 そして、<広宣流布>とは、創価学会の教えを全世界に広め続けることのみが唯一の世界平和の道であり、その闘いに勝利することが真の幸福への道である、と扇動的に説く教えである。

 上記で述べたように、創価学会の思想とは、「思想・良心の自由」を認めよう、多様性を認めよう、という人間の根本的な条件を守る基本的人権の対極に位置する思想なのではないのか、という疑問が湧いてくるのを理解できるだろうか。

 大事なところなので繰り返そう。<折伏>とは端的に言ってしまえば、「他人の意見を全否定して、創価学会の教えをゴリ押しする信仰」であると言えるのであれば、基本的人権である「思想・良心の自由」を侵していると解釈できる。
 また、<広宣流布>は、創価学会の教えを全世界、全民族まで広めようとする行為であり、これを突き詰めれば結局のところ、他の宗教は淘汰されてしかるべき、という思想に行き着いてしまう。こういった思想ではとうぜん、「多様性を認める」思想とは正反対の、「単一的な思想」へと向かうことになる。よって、基本的人権である「自由権」を侵しかねない行為であると言えるだろう。
 この二律背反(矛盾)をどう受け止めればよいのか自分にはさっぱりわからない。大きな結論はたったこれだけである。

 「多様な思想を認める」寛容さがあるのであれば、創価学会の根本の思想であるとされる<折伏>は意味を成さないし、<広宣流布>は絵空事にしかならない。このアンチノミーパラドックス)に誰がどのように答えうるのだろうか。
 この論点ですでに話しが噛み合いそうになければ、ここで読み終わることをお勧めする。

2.脱会の動機

 今まで※※※年間生きてきて、<信仰>について真面目に考えたのは、ここ最近になってだと思う。それまで信仰の絶対的な必要性など感じたことがなかった。子供のころから創価学会の信者ではなかったし、(自己批判的であるがゆえに、)そのつもりもなかった。それでも少なからず、「おまじない」的な“こころ”の安定には機能していたのは事実だろう。だがそれは、掌に「人」という字を三回書いて飲む、ことと大差のない、あくまで無根拠でかまわない「おまじない」としてだ。 こどもには、そもそも自信を持つという根拠付けが経験値からいって乏しい。それゆえに、それが本当に効果のあることかどうかとは関係なく、こどもには「おまじない」が有効なのである。そのレベルにおいて、創価学会はそれなりに機能していたと言えるが、あくまでその程度においてである。
 家庭環境の地盤沈下創価学会の信仰のみで埋めようとしても、現実的にいって、こどもの“こころ”の支えは、それ以前の家族/親子関係に強く依存しており、それなくして「おまじない」だけでどうにかなるものではないだろう。逆に言えば、その家族/親子関係をベースにできていれば、「おまじない」だけで充分事足りるとも言える。おそらく、私たちは、そこから機能不全を起こしていたという共通認識を持たねばならないのではないか。そう考えることができれば、必然的に「おまじない」的なものに依拠しなければならなかった現実も見えてくるのではないか。
 そのような問題提起から脱会の動機を話したい。

 一人暮らしを始めて家が比較的近かったため、従兄弟のJくんから何度か学会への誘いを受けた。学会への興味はとくになかったけれど、いろいろ考えを知るという理由で、これまで何度も学会の会合に参加したが、結局、何がすごいのかよく判らなかった。
 そんなある日、またJくんに誘われ会合へ出向いたのだが、途中で唐突に入信の話題になり、そのままなし崩し的に入会の流れになったので私は抵抗した。当事者の発言なく、他人の一存で入信が形式的に済まされてしまってよいのだろうか、と不信感を強く抱いた。これではショップの会員登録レベルじゃないか。いや、軽く断れない分、これでは荒手の押し売り販売ではないか、と感じた。 なので、私は首を縦に振ることができなかったため、外へ出てJくんと二人で話すことになった。
 一対一の対話、つまり創価学会の根本的思想の<折伏>の力が試される訳だが、自分が感じたのは、「何も言ってない」という印象だけだった(それはお前がわかってないだけだという反論はもちろん受け入れるが)。

 それでもJくんが言ったことをかんたんにまとめてみると、「この宗教はすごい」 「とりあえずやってみればわかる」 「ご本尊は自分が迷ったときの羅針盤になる」 「自分のためにやればいい」、といったところだ。はたしてこれが<折伏>の力なのだろうか、と首をかしげてしまう。他の宗教との差異、特異性をもっと丁寧に説くべきではないのだろうか。そう感じながらもJくんの<折伏>という晴れ舞台に親戚が泥を塗るわけにはいかないので、妥協するという形であるものの、創価学会への入信がみごとに成立したわけである。

 誤解がないように言うが、ここでJくんの例を出したのは批判したいからではなく、むしろこれまで会って来た何を言っているのか良くわからない人たちより、Jくん個人に期待していたといえる。音楽の趣向や教養面から、もしかすれば「話ができるかもしれない」と期待していたが、結果はやはり個としての会話には至らず、バックボーンには創価学会の<信仰>がベッタリ張り付いていて、私はただただ唖然とするしかなかった。

 とにもかくにも、晴れて会員数一千万人とも言われている(HPには850万世帯が入信とあるが、実際はもっと少ないという批判もある)学会員となった。
 劣化コピーされ判然としない文字が書かれたお守り御本尊なるものを3千円ほどで買わされ、それを押入れに突っ込んだままにしていたわけだが、お守り御本尊があろうがなかろうが、とくに自分の考えは(いつもぶれてはいたが、)大きく変わることもなく、学会からはなるべく距離をとるようになっていた。そうこうしているうちに、3月11日が来た。

 人間の非力さ、宗教の無力さを感じた。

 後日、創価学会の公式サイトを訪れた。一年近く姿を見せていないはずの池田大作から(と、一応なっている)メッセージがサイトにアップされていたので転載してみる。
 2011年3月16日、池田大作名誉会長がメッセージをおくり、同日付けの聖教新聞1面に掲載された。
 『このたびの東日本大震災に際し、被災なされた皆様方に、重ねて心よりお見舞いを申し上げます。大地震・大津波より6日目。安否を確認できない方々も多数おられます。皆様方の疲労も、さぞかし深いことでしょう。体調を崩されぬよう、そして十方の仏菩薩から守りに護られますように、私も妻も、全国の同志も、世界の同志も、一心不乱に題目を送っております。わが身をなげうって救援・支援に尽力くださっている役員の方々、さらに地域の依怙依託の皆様、誠に誠にありがとうございます。「一国の王とならむよりも、一人の人を救済するは大なる事業なり」(『啄木全集 第7巻』筑摩書房)とは、東北が生んだ青年詩人・石川啄木の叫びでありました。私は最大の敬意と感謝を表します。 御書には、災害に遭っても「心を壊る能わず(=心は壊せない)」(65ページ)と厳然と示されています。「心の財」だけは絶対に壊されません。いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練であります。すべてを断固と「変毒為薬」できるのが、この仏法であり、信心であります。また、逝去なされたご親族やご友人の追善回向を懇ろに行わせていただいております。本当に残念でなりませんが、生命は永遠であり、生死を超えて題目で結ばれています。妙法に連なる故人は必ず諸天に擁護されて成仏され、すぐに近くに還ってこられます。これが仏法の方程式であります。日蓮大聖人の御在世にも「前代未聞」と言われる正嘉の大地震がありました。人々の悲嘆に胸を痛められ、大難の連続の中、「立正安国」という正義と平和の旗を厳として打ち立ててくださったのであります。大聖人は、「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書1300ページ)と御断言になられました。きょう「3・16」は、恩師・戸田城聖先生が、この世から一切の不幸と悲惨を無くすために、「広宣流布」を後継の青年に託された日であります。一段と強く広宣流布誓願し、共々に励まし合い、支え合いながら、この大災難を乗り越え、勝ち越えてまいりたい。断じて負けるな! 勇気を持て! 希望を持て! と祈り叫んで、私のメッセージとさせていただきます。』

 震災当時、この文章を読んでも、ああそうですかという印象しかなかったが、改めて読んでみるといろいろわかることがある。例えば、引用元の文章が極端に短い。あまりにも短い一節を抜き出しただけなので、そもそも論理性を放棄しているようにさえ見える。
 ほかにも、死(者)に対しての言葉がないこと。また、親しき人を亡くした遺族への配慮にも著しく欠けていると感じる。
 創価の教えでは、死んでもまた生まれ変わるから悲しむ必要などないという考えだろうか。題目で結ばれていれば何も悲しくなく、「追善回向」すればそれでよいという考えなのかもしれない。
 しかし、これでは学会信者以外には届かない(響かない)限定的で画一的な言葉でしかない。このように言うと学会員向けだから当然だ、という批判があるのかもしれない。 だが、これほどまでの大災害、つまり、国難である時に、できるだけ多くの国民に届くような開かれた言葉で語らなければ意味がないように思う。世界に広める思想<広宣流布>とは、本来はそういう意味であり、その舞台はまさにこの時にこそあった。

 思想家の東浩紀は、日本では震災後すぐに「がんばろう」、「復興に向けて」などの言葉は大量に出てくるが、それ以前に死者を目の当りにし沈黙するしかない状態や追悼の意、沈鬱な日々を送るという過程がぼくたちには一定期間必要なはずなのに、それを口にする者がほとんどいない。そういうことを口にする言葉がぽっかり抜け落ちてしまっている昨今の日本社会は非常に危うい状況にあるのではないか、というような内容を震災後、何度も指摘していた。この東の批判に上記の池田の文章もみごとに当てはまる。

 震災から5日目、このころ事態はすでに震災を超えて人災も手伝い、原発メルトスルーし、放射能の問題に世界中が関心を集めていた。
 震災後に政府は、東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)に哲学者の梅原猛を任命した。梅原猛はこの原発の問題を「文明災」と位置付けた。梅原氏の記事と読み比べてほしい。

 『仏教の徳が、日本の人々の心のどこかで生きづいているように思う。たとえば、思うようにならない天災を、「仕方がない」と受け入れ、逆に前向きに生きていこうとする。こうした姿勢は、大乗仏教の忍辱、つまり、精神的な屈辱や苦難に耐え、自分の道を貫くという考えからきている。日本のようなモンスーン地域では、しょっちゅう天災がある。このような地域で、自然とともに生きていくための知恵だ。一種のあきらめの精神ではあるが、日本の優れた文化でもある。<中略>
スリーマイル島チェルノブイリの反省も生かさず、今回福島でも事故を起こした原子力発電を推進している東京電力は、優良企業と呼ばれてきた。しかし、これはどこか間違っていたのではないか。福島原発の事故の後に行われたドイツの州議会選挙では、反原発を掲げる緑の党が躍進した。今や、原発は日本だけでなく、世界の問題となっている。原発をやめさせようとする世界的な流れが起こっているのだ。とはいえ、原発を廃止するのもお金がかかる。廃棄物処理の問題も残ったままだ。人間は、本当にやっかいなものをつくってしまった。今回の事故は、あらためて近代文明の是非を問い直し、新しい文明を作るきっかけにもなるのではないか。まずは日本が率先して原発のない国を作り、それを世界に広げていくべきだと思う。そのためにやるべきことは二つ。まず、代替のエネルギーとして、太陽光エネルギーの研究をすすめるべきだ。これまで、原発を推進する研究に莫大な研究費を投じてきた。その研究費を、太陽光エネルギーに投入する。日本企業も京セラなどはこれまでも取り組んできたが、それ以外の企業も本気で取り組むべきだろう。もう一つは、過剰なエネルギーを浪費するような生活から脱却すること。今原発が賄っている電力は全体の3割程度。太陽エネルギーによる代替とともに、一人ひとりが生活を改めることが重要だ。スリーマイル島の時も、チェルノブイリの時も、国や東京電力は、日本の原発は絶対に安全だと言い続けてきた。しかし、日本の原発だけが安全などということはあるわけがない。今回の事故で、それが明らかになった。今こそ原発から脱却する新しい国をつくらなければ、必ずまた同じような事故が起こる。原発の事故は、近代文明の悪をあぶりだした。これは天災であり、人災であり、「文明災」でもある。今回の震災について、石原慎太郎さんが「天罰」という発言をされたが、何の罪もない一般の人々が被害にあわれたこの災害に対して、「天罰」という表現は間違っている。もし「天罰」があるとすれば、それは道徳心を失った政治家、実業家に対して下らねばならない。今も原発の現場では、自らの身の危険を顧みずに復旧作業にあたっている作業員の方もいらっしゃる。日本人には、本当に立派な人がいると感じる。こういう心を皆が持って、新しい国づくりをしていかなくてはいけない。そして、新しい日本が模範となれば、世界をも変えていけるのではないか。今こそ、経済力だけでなく、新しい価値観で世界に範を垂れる国をつくるときだ。』

 ここで梅原は今後の日本の電力をどのようにすべきか、という提案を出し、思想家らしくひとつの方向性も明確に示していることがわかるだろうか。
 さて次に、再度池田大作の記事が載った文章を引用してみる。両者の差異を公平な視点から判断できるようにとほぼ全文を転載している。どうかもう少しお付き合い頂きたい。

 2011年3月17日、原田稔会長が宮城の被災地で紹介した、東北の友への池田大作名誉会長のメッセージは以下の通り(3月18日付聖教新聞2面に掲載)。
 『私の心も東北にあります。愛する皆様方と一緒です。どれほど痛ましい、甚大な被害か。改めて、心よりお見舞い申し上げます。胸の張り裂けるような惨状のなかで、皆様方は、菩薩の如く、いな仏そのものの勇気と慈悲と智慧をもって、一人一人の友を励まし、大勢の方々を救ってくださっています。東北をこよなく愛された、わが師・戸田城聖先生は、よく言われておりました。「いざという時に、人間の真価は現れる。いざという時、絶対に信頼できるのが、東北人だよ」と。本当に、その通りであります。一番、純朴で親切な、一番、誠実で忍耐強い、わが東北の友の偉大な奮闘に、私は心で熱い涙を流しながら、最敬礼しております。日蓮大聖人は、最愛の家族を失った一人の女性に、こう仰せになられました。「法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(御書1504頁)と。いかに深い悲しみや苦しみにあっても、絶対に負けない。妙法を唱え、妙法とともに生き抜く、わが生命それ自体が、金剛にして不壊の仏だからであります。戸田先生も、東北の友に語られました。「大聖人は、すべての大難を乗り切られた。これが実証です。あなたには、妙法があるではないか。創価学会があるではないか」いまだに、ご家族や同志・友人の安否が掌握できない方々の心中は察するにあまりあります。私も妻と題目を送り続けております。御聖訓には、「設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ」(同1069頁)とあります。どんな境遇にあろうとも、広宣流布に進む私たちの心は、同じ仏の境涯にあります。生々世々、仏の常楽我浄の世界で、一緒であり、一体なのであります。仮に一時、離れ離れになろうとも、この生命の不可思議な絆だけは、決して切れることはありません。ともあれ日本中、世界中の友が、異口同音に感嘆し、驚嘆していることは、「東北だからこそ、これだけの大災害にも屈しない。東北には、なんと崇高な人材群がそろっていることか」ということであります。創価の名門・仙台支部の誕生から60年経ちます。これが、戸田先生の願い通り、誇り高き皆様方が私と共に築き上げてくださった、難攻不落の東北の人材城であります。東北出身の哲学者・阿部次郎は、「如何なる場合に於ても思想は力である」(『三太郎の日記』岩波書店)と言いました。最極の人間主義の思想である仏法は、最強の人間主義の力であります。今から250年以上前、ポルトガルの都リスボンは、大地震と大津波と大火事によって壊滅しました。しかし、そこから迅速に立ち上がり、幾多の人材の力を結集して、大復興を成し遂げ、最高峰の理想都市を建設していった歴史があります。どうか、大変でしょうけれども、一日一日、無量無辺の大功徳を積みながら、人類が仰ぎ見る「人間共和の永遠の都」を、東北天地に断固として創り上げていってください。私も、愛する東北の皆様のために、いよいよ祈り、総力を尽くしてまいります。最も大きな難を受けた東北が、最も勝ち栄えていくことこそが、広宣流布の総仕上げだからであります。大切な大切な皆様方、どうか、お元気で! お達者で! 四六時中、題目を送り抜いてまいります。』

 私の知るかぎり、震災後の池田大作のメッセージはこの二つだけである。どうだろう、やはり何も言っていないと感じる。事態は震災ではなく原発(文明災)の問題に重点が置かれていたが、そこへの言及がいっさいない。公明党の発言にも目に留まるような主張はなかった。原発問題はどうしたって政治性を帯びるし、人生(宗教)観が露呈してしまう大きな問題であった。

 この国難のときに誰がどのような発言を残したかを検証することは、発言者の信頼性を見極める判断材料として有効だと思う。ここで原発の是非に関わらず言及できなかった学者や政治家や知識人などは、その力量の浅さを露呈してしまったとも言えるだろう。あるいは(個人レベルあるいは党レベルでの)表面下での原発との利害関係、癒着は隠しつつ、支持者には反原発的に振る舞いたい信用できない者の典型であるという疑念は個人的に強まった。

 東電はもちろんのこと、政治家や原子力安全委員会も情報を隠蔽し、政府への不信は致命的なレベルにまで達した。芸能人でも原発問題に過度に踏み込んだ発言をしたものは仕事を降板させられた。ネット上では疑心暗鬼からくる誹謗中傷が飛び交っていた。この時、日本国民は戦後初めて政治的な問題に直面したと言えるだろう。

 冷却装置が損傷し、メルトダウンの危険が叫ばれていた原発問題。すでに放射能は漏れ出しており、政府はそれを隠しているという噂が飛び交う混乱のなか、多くの人々はそれまで「安全神話」を妄信していたがゆえに、放射能の危険性については限りなく無知であった。
 多くの国民が妄信した原因は、マス・メディアへの莫大な広告宣伝費を投じて築き上げてきた、「安全・安心」というイメージ戦略(洗脳)であったといえるだろう。   
 マス・メディアにとって東電は最大のスポンサーとなるので、とうぜん強く批判できない。このような利害関係に屈したメディアは、あろうことか情報操作・隠蔽に加担してしまう。本来、メディアは中立な立場で情報を国民に伝えることが役割(そのため電波法で利権が強く守られている)なのだが、それを守れなかったマス・メディアは政府同様に信頼を失った。
 東電もメディアも政府も信用できないことにようやく気付き、国民が混乱し、絶望している状況で、池田大作は確実に原発問題をスルーした。つまり、創価学会は国を左右するかもしれない最も思想・理念が問われる事態を目の前に、沈黙・黙秘することしかできなかった。
 池田大作の重病説は否定し、あくまで体調不良とする創価学会だが、ご高齢である天皇陛下も手術前であったにもかかわらず被災地へ足を運ばれたように、池田も現地へ訪れるべきではなかったのか。少なくともパフォーマンスとして現地を訪問する姿が某紙一面を飾る光景は、信者の期待にもっとも答えられる場面であったことはまちがいないだろう。祈り続ける元気や被災地へのメッセージを書く正常な意識があるのであれば、なぜ被災地へ直接出向いて励まさないのだろうか? 放射能を恐れて家族を西へと非難させ、自らも被災地を避けていた政治家は多いと聞くが、これらの行動とどう違うといえるのだろうか。もはや創価学会の体質は、東電同様に「不透明」であることに疑いの余地はないと思える。
 この批判はとうぜん公明党にも向けられる。政治的な発言力があるのに何も言わなかった功罪は大きいと言えるだろう。
 原発「賛成」か「反対」この素朴な質問にだけ答えてくれればよかったのだ。部分的に賛成反対が入り混じり錯綜していたってかまわない。問題は、これからどちらの道を目指そうとしているのか、そのビジョンを国民に示す必要があったのだと思う。
 
 さて、これまでの状況を踏まえ、もう一度、梅原猛の文章を転載してみる。 
 2012年4月9日 東京新聞夕刊より「二種の絆」。
 『最近「絆」という言葉がしばしば肯定的に語られている。未曽有の災害というべき東日本大震災に際して、確かに多くの人々が家族ばかりか地域の人々を思いやって行動した。人を助けるために自らの尊い命を犠牲にした人は5人や10人ではない。この大震災にあって日本人が甚だ道徳的であった事は海外のメディアでも称賛された。また、被災地の人々が大震災後、力強く立ち上がる力となったのも人間の絆であった。このように考えると、「絆」が高らかに礼讃されるのももっともなことである。しかし絆というものはいかなる場合もよいものであろうか。社会学の開祖といわれるドイツの学者テンニエスは、人間社会をゲマインンシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)に分類した。共同社会は血縁、地縁によって結合される社会で、人間の本質意思によって成立するが、利益社会は会社あるいは大都市の社会で、人間の選択意思によって形成されたものであり、人々を結びつけるのは金銭的な利害関係である。テンニエスは人間社会は共同社会から利益社会へ発展すると考えた。中世社会は共同社会の、近代社会は利益社会の性格が強いというのであろう。とすれば、日本のような近代国家においては共同社会の絆より利益社会の絆が強いといわねばならない。東日本大震災にあたって人々を驚かせたのは、この辺境といってよい東北の地に共同社会の美徳が残っていたことである。私は30年ほど前に書いた著書「日本の深層」で、東北の地には日本の基層文化である縄文文化が多分に残っていると論じたが、その認識は間違いではなかった。しかし大震災によって、私はまた利益社会の絆の強さも感じざるを得なかった。たとえば、東京電力という国家に手厚く守られた会社の絆である。内閣府原子力安全委員会経産省原子力安全・保安院の人々をはじめとする多くの学者や官僚との間に非常に強力な絆が築かれていたように思われる。福島の原発事故について正当な発言をしてくれると思われた友人の学者がメディアで、むしろ東京電力を擁護するような発言をした。不思議に思っていたところ、その学者をはじめ多くの原子力関連の学者が東京電力から多額の寄付を受けていたことが分かった。わたしは、今回の大事故にもかかわらず確固たる根拠もなしに原発の安全性を叫ぶのは、このような利益社会の絆の中に立たざるを得ない人間であるような気がする。先日亡くなった吉本隆明から学ぶべきものは、一切の絆から離れて自分の思想をはっきり語る態度である。共同社会の絆はもちろん利益社会の絆も大切であろうが、しかしたとえ少数でも、一切の絆から離れて自分の意見をはっきり主張する人間がいないかぎり、日本が近代国家として立派に発展することは不可能であるとわたしは思う。』

 東電的体質が日本の政治、社会に蔓延しており、創価学会もまたそれらとなんら変らない体質と成り果てていたことが、津波が引いたあと浮き彫りとなった(冷戦時代には原子力爆弾・核兵器反対の意思を声高々に表明していたのに、9.11ではアメリカの「テロへの報復」というワンフレーズに、自公連立で安易に賛成するという愚考の末、蓋を開けてみればイラクには核兵器がなかったと証明された。にもかかわらず、謝罪、弁明なしという無責任さ。あげくの果ては、3.11による原発事故という自国の国難を前に、まがいなりにも国民の13分の1近くの信者がいるとされる団体が、自らの当事者として発言力、影響力を発揮できる最大のチャンスに、何も意思を表明しない(できない)大敗という事実)。

続―脱会の動機

 優れた知識人は原発反対・賛成どちらとも問わず、自らの主張を述べた(ネット上にデータとしていつまでも記録されているので調べればわかるだろう)。それは(妄信であったがゆえ無知な)国民へ事態を正しく知らす必要があるという問題意識や、(間接的にしろ、そういう社会をつくっていた)責任感から生じた発言だったと思う。原発放射能の問題は、いまでも議論が絶えず、さまざまな意見や誹謗中傷があるので、発言者はそれなりの覚悟が必要となる。
 そもそも放射能は、人間ひとりの生涯では到底責任を終えるような時間の尺度ではないので、簡単な答えなどないのが前提となる。したがって、思想が露呈する問題(政治的)にならざるを得ない。問題意識や責任感それに加え、発言に裏打ちされた知性が必要となる。これらを踏まえた上で能力ある人物は発言する。そのリアルタイムでの発言(透明性)は、現代社会ではとうぜん高く評価される。一例として、反原発を唱えたソフトバンク社長の孫正義について書いてみよう。

 2011年4月3日に東日本大震災に個人で100億円寄付すると発表。
 また、引退するまでソフトバンク代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明。
 福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立。
 『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立。
 脱原発に向け、再生可能エネルギーの事業としてメガソーラー(太陽光発電)計画を唱え、現に2012年に京都で一基が稼動。また同年7月に群馬でも稼動した。年内に5ヶ所での稼動を目標としている。

 どうだろう、素晴らしい行動力と実行力ではないか。もちろん反原発だから絶賛しているというわけではない。そもそも原発推進か反原発かという単純な二極論は事態を悪化させるだけだろう。

 ここで言いたいのは、震災以後の問題意識を明確に表明し、素早く実行に移した好例として出したまでだ。孫正義の震災後の行動と決断は、リアルタイムでつぶやくSNSサービス「ツイッター」(社員全員に登録を指示している)で連動して行われ、さまざまな思いや決断がその場その場で形となっていく過程を開かれたリアルタイムの場で知れるというのは、透明性がきわめて高く、それは信頼(または落胆)へ直結する。
 個人的に孫正義を尊敬しているが、神格化などしないし、他の孫正義の発言もすべて鵜呑みにして信じるなんてことはしない。ただ、これからも彼の発言や行動に期待している分、その都度彼の言動を監視し、自分の頭で考えた評価を下していくだけだ。

 ちなみに、創価学会義援金は5億4000万円である。池田大作個人での寄付は表に出ていない(ちなみに年収は1〜3億円と言われている)。柳井(ユニクロ社長)は個人資産10億を寄付。会社含めると総額約21億円になる。三木谷(楽天社長)は個人資産10億を寄付。イオン30億、ソフトバンク10億、コカ・コーラ食品は6億、三菱商事4億などなどある。
 今述べた企業や個人は、義援金の大小に関わらず評価できるのだが、創価学会だけは5億4000万円という高額の義援金を出していたとしても評価できない異質な立場にあるということを説明したい。

 上場企業というのは営利目的なので、株主が存在する。株主とは、その企業の成長発展を期待してお金を投資する人々のことを指す。そして、企業は集まった投資家たちからの資金を事業発展のために有効活用し、売り上げを伸ばすことに努める。常々、「会社は誰のもの?」という問いに、「株主のもの」と答えるのはこの為である。したがって、企業は四半期ごとに業績を公開し、さまざまな財務諸表を投資家へ開示(ディスクロージャー)するのである。つまり、資金の透明性(コーポレートガバナンス)が信頼条件であり、必要不可欠であるというのが現在のグローバル資本主義の前提なのである。
 しかし、創価学会は宗教法人(非営利)なので、資金の流れが不透明でも法律上問題とならない。宗教法人で得た利益には税がいっさいかからないし、寄付と称されるお布施なども、すべて非公表で良いのだからとうぜん、創価学会の総資産がいったいいくらあるのか誰にもわからない(噂では数兆円とも言われている)ため、不透明で反グローバル的といえるだろう。

 そういうわけで、企業の義援金額の評価は、その企業の総資産や純利益などを見れば誰でもわかるので、「この企業は稼いでいるわりに額は少ない」、「赤字続きなのに良くやっている」というような評価ができるのだが、創価学会のような宗教法人の義援金の評価は資産が非公表(不透明)なため、そもそも評価する基準がみえないのだ。公表の義務は法律上ないが、公表する自由はあるのに示さない。つまり、透明性が増せば信頼が高まる時代に、不透明で不信を抱く道をみずから選んでいるといえる。なので、この件だけに関して言えば、創価学会義援金は額に関わらず、義援金を出したという行為のみでしか評価できない。ただ5億円という額に「すごい」と反応してしまうのは、あまりに単純で、そこには何がどうすごいのかの根拠は一切ない。それを肯定してしまえば、世の中はお金がすべてだという誤った価値観を認めることになってしまう。私の親は幹部や公明党議員は最低限の収入で学会のために努力していると思っているようだが、参考サイト(http://kanbusyotoku.99k.org/)によれば、幹部は年収3〜5千万円と大変裕福な暮らしをしているようだ。ちなみに参考サイトには、幹部の名前と納税額が記載された税務署の書類が載っている。

 少し話が逸れたので原発問題に戻そう。質問はいたって明解だ。原発「反対か賛成」これだけである。「あなたはどっち?」という問いに、周りの空気を読んだり、流されたりして、当たり障りのない発言をするのではなく、みないっせいに「せいの」で答えればいいだけだ。そうすることによって、ようやく多様性は生まれるだろう。創価浄土真宗も小さな島国で乱立した仏教の派生の派生でしかない。卑近な仏教信者たちのちっぽけな差異から生じる、見栄や憎悪や優越感により自意識を保つ必要などない。そもそも仏教は、インドで始まり、アジア、中国を経て、ようやく日本に広まった輸入ものの宗教でしかない。「南無妙法蓮華経」を絶対と言ったところで、漢字(英訳:Chinese character“チャイニーズ・キャラクター”)は中国からの輸入物でしかない。

 原発問題は友人関係や家族関係を分断するほどの大きな問題となった。池田大作と同じように、多くの人が沈黙した。創価学会は立場を明確にできなかった。これは紛れもない事実である。発言者たちは対立し、多様な意見が生まれた。そして、この対立こそが思想の違いであり、哲学の違いであり、宗教感の違いなのである。私たちの近代の生活はいうまでもなく、電気の力によって支えられてきた。その多くの電気エネルギーは原子力発電によって賄ってきた。しかし、原発の危険性や廃棄物処理の問題などに関心を向けるものはほとんどなく、政府、マス・メディアによって塗り固められた「安全神話」を妄信していた。つまり、原子力発電によって成り立っていた近代社会を盲目的に信仰(妄信)していた。しかし、3月11日を機に、「安全神話」はあっけなく崩壊し、原子力エネルギー<信仰>の呪縛は解け、残ったのは、無知で利己的な個人の集まりだった。そのことを私はずっと恥じている。

 原発問題は創価学会でも誰でも答えを出せない。なぜなら、これは「文明災」であるからだ。文明とは、進化している過程の現在の問題であり、未来はだれにもわからない。この文明を生きながら新しい流れをひとつひとつ創ることでしか答えは導き出せない。つまり、あなたはどっちの道を選ぶのか?という思想の問いなのである。宗教がビジョンを示せなかったいま、そもそも日本には宗教など根付いていなかった、と考えるべきではないだろうか。言うまでもなく「いっせいの」で答えたなら、天理教の信者も、浄土真宗の信者も、創価学会の信者も、「〇〇宗教」という窮屈に固定された枠を超えて、みなをばらばらにしてしまうだろう。
 それが何度も言う多様性である。
 認めるとは、他者を理解しようとする態度のことである。

 この地震で人間は自然の前では無力だということを改めて実感させられた。もう本質的な話し抜きではまともに話せないな、と思ったので、宗教そのものの「嘘」を前提すること、すなわち、社会学者、宮台真司の言葉を借りれば、『島宇宙化/蛸壺化』した創価学会というゲームから完全に降りる決断(リセット)をしたわけだ。

 9.11を境に実家を出たくなり一人暮らしを始め、3.11を境に自らの意見、立場を明確にすべきだと感じた。3.11以降、個人の生き方や考え方の転向を余儀なくされた。そんな感じがざっくりとした脱退の動機となる。
 ちなみにいま名前を上げた宮台真司は、9.11直後に「このテロはアメリカの自業自得である」とネットメディアではっきりと口にしていたし、3.11の大震災前から原発の病理に言及し、再生可能エネルギーの必要性を説いていた。3.11後も政府の非難区域の拡大を批判した。理由は、リスク管理とはそもそも大きくとって縮小していくものだから、非難区域も予測以上に大きくとって次第に小さくしていくべきだったという主張だ。ご存知のように、政府の対応は真逆だった。
 宮台真司はこのように事件後すぐに発言をし、論理的な主張を積み重ねているがゆえ、信頼に値する。このような過去からの発言の一貫性などと照らし合わせて創価学会を正当に評価・批評していることを理解して頂きたい。

3.創価学会とは何か

 個人的な脱会の動機は上記で述べたが、ではいったい自分は創価学会をどのように捉えていたのか、また、そもそも宗教/信仰とはどんなものだと考えているのかということについて書いてみたい。東日本大震災は生きることへの本質的な部分を考えさせられる災害であり、戦後はじめての国難だと多くの人が口にした。

 創価学会は言うまでもなく、戦後つくられた新興宗教だ(創価教育学会は1930年に創立したとされているが「創価教育学会」を「創価学会」に改称したのは1946年3月。終戦は1945年8月15日。正式に認められたのは1952年、宗教法人の認証を得る)。

 私の解釈では、創価学会創価教育学会)は、戦中に獄死した牧口の意思を継いだ戸田が、学問や出版で事業を広めていたが、やがて日蓮大聖人の教えを前面に出す方針に舵を切り、宗教色を強めていった。戸田の死去後、池田がトップとなり、カリスマ性をいかんなく発揮し、人員を増やし、組織化していった。そのタイミングと重なるように、戦後高度成長期という右肩上がりの日本経済が到来し、バブルの流れに乗った<信仰>を旗に創価学会の勢力はうなぎ登りに拡大していき、今に至る、と大雑把捉えている。
 このように感じるのは、80年代生まれという世代の問題も大きいのかもしれない。80年代は、実質的には、バブル(右肩上がり)が崩壊しており、右肩下がりの時代への移行期に突入していたからだ(実際、庶民の生活に影響を与えるのは80年代後半ごろ)。
 それは、親同士で発する「不景気」という合言葉や、教員たちによる「就職難」という擦り込みで実感せざるをえなかったし、政治の衰退や日経平均チャートをみれば一目瞭然である。

 そんなわけで右肩下がりの80年世代後半には、すでに創価学会的ながんばれ(題目すれ)ば報われるという高度成長期と同期した信仰の魔法は効力を失っていたのではないか、と今考えれば思う。
 ここで何が言いたいのかと言うと、創価学会の成功とは、高度成長期に支えられた(部分が極めて大きい)宗教であり、その成功は、必然的に資本主義的な宗教でなければならなかったということである。
 資本主義的な宗教とはどういうことか。それはかんたんに言うと、<信仰>により物質的な成功が得られるということだ。これが資本主義的(戦後民主主義的)宗教感であり、創価学会の宗教感であるのだと考える。
 そのように考えてみれば、日蓮正宗からの破門は必然的なのだと私は納得してしまう(破門による詳しい成り行きにはそもそも興味がないので細かい部分は省く)。

 創価学会初代会長、牧口常三郎の「価値論」を引いてみれば、『使用価値交換価値、価値の概念はマルクスの経済学にとっては、もっとも基礎的な概念である。之を知ることなしにはマルクスの経済学説は到底理解されない――とは、「マルクス経済学」の著書高畠素之利氏の告白である。この前項はそっくりそのまま創価学説に移しても妥当であると思う。(P.15)』

 このように、この時期の日本ではマルクス主義が広まりつつあったことがわかり、牧口本人もこのマルクス主義で主張している資本主義の構造を知ったうえで、これを「そっくりそのまま創価学説に移しても妥当」だと言っていることからも、創価学会マルクスの説いた資本主義を基盤にして始まった宗教(学会)であるということがわかる。

 資本主義の発展には「貨幣」制度が成功したことが大きいとされている。日本は、昔は農耕民族であり、農作業による労働の対価=作物の収穫量、という目に見える形であった(それとは別に、人の力の及ばないものとして、天災などで収穫量は大きく左右されるため、必然的に自然を神とし拝んでいた)。

 しかし、「貨幣」制度がはじまり、労働の価値観は激変する。マルクスがいうように、物と物の物々交換は対象性があるが、「貨幣」を介在させた価値形態での関係は、非対称性となる。つまり、売る立場と買う立場は入れ替わらない。
 ユニクロの服は千円で買えるが、プラダの服は何万円もする。そして、どちらもその値段で買い手が一定数存在する。自作した服を100万円で売ろうが自由だが、そこに買い手が現れなければ売買(価値)は成立しない。このように、価値(ブランド)によって、その商品の値段は成立する。

 当たり前だが、「貨幣」の価値は数値化され、一定(貧乏人の持つ壱万円札も、資産家の持つ壱万円札も同じ価値)である。つまり、物質化された「貨幣」に一定の価値があると規定し、みながそれを信じることによって、資本主義は成り立っている。言い変えるとわれわれは、大前提として「貨幣」制度を<信仰>していることになる(だから、アメリカの経済の見通しが悪ければ、ドル通貨の「価値」は相対的に下がり、金(ゴールド)や銀(シルバー)などの資源に資金が流れ、価格は高騰する)。くり返しになるが、私たちは、壱万円と印刷された“紙切れ”に、「付加価値」があることを前提(信仰)としているのだ。

 このように、突き詰めればわかるように、「貨幣」制度とは、虚構を前提にしている。経済学者の池田信夫は、「健全な民主主義が機能している国では健全な資本主義が発達する」と述べるように、「人民のための社会」というキャッチフレーズ(=民主主義)の名の下に勢力を拡大してきた池田大作期の創価学会の「価値(創造)」とは、日本経済の「貨幣」価値が青天井で高騰をつづける80年代後半がピークであったといえるだろう(1989年、日経平均は38,915円の至上最高値をつけた。現在は9000円前後と、おおよそ4分の1の価値と評価されている)。
 つまり、「お題目」によってのフィードバックは、「貨幣」の価値を内包した何らかの物質的な形を意味せねばならず、「発展・成功・勝利」とは、結局のところ、日本の高度成長がこれからもずっと続くと思い込んでいたにすぎない、と言えるだろう。少なからずそのような幻想がこの時代にはあり、それを前提としていた。
 だから、題目し、祈れば、物質的な形となった見返り(成功、勝利)が反ってくると信じられた。バブル期の日本では、そのように思い込んでしまう人がいたのもある意で味仕方がなかったのかもしれない。しかし、歴史が証明するように、バブル(泡)は弾ける。そしてまた別のところでバブルは起こる。それが資本主義=民主主義の歴史であり、池田大作はそれを肯定していた。
 創価学会の急速な成長は、バブル幻想によって引き起こされ、資本主義という虚構を前提とした社会を<信仰>することで成り立っていたのであれば、それは資本主義(貨幣制度)を<信仰>していることと、どう違うのか。そのような新興宗教をはたして宗教と呼んでよいのだろうか。

 創価学会は、お題目や宗教活動などの<信仰>を行うことにより、物質的な見返り(勝利、成功)が返ってくると説くわけだが、かんたんに言ってしまえば、資本主義での「努力すれば報われる」と同義でしかない。それ以上でも以下でもない。言い直すと、金銭的成功者、社会的勝利者が偉いという拝金主義的、成果主義的であり、その思考はあまりに世俗的、また単一的な価値観でしかない。その近代的な資本主義という虚構でしかない現実が拡大し、発展していくことを信じることが本来のマルクス主義を肯定とした牧口による創価学会の教えである。
 そういった盲目的な<信仰>は、一見一途で純粋なものに映るかもしれないが、信じるとはある意味において、「思い込む」ということでもあり、それは思考を止めることでもあり、厚顔無恥に見えてしまう危険性も孕んでいる。現に牧口は、マルクスの考えは創価学会にも当てはまるといっている以上、「成熟された資本主義はやがて社会主義に戻る」というマルクスの結論の意味を想像せねばならないはずだ。
 マルクスの指摘する資本主義は、ヒエラルキー(ピラミッド型)の底辺を支える大多数の層に、低賃金で文句なく働いてもらうことが、ヒエラルキーのトップ(資本家)にとって重要なことになる。数人の頂点に君臨し続ける者たちが一番おそれることは、人民が結託して革命が起こり、地位が転覆することだ。正当にヒエラルキーの上へと登るには飛躍的な価値を創りださねばならない。
 このように、マルクスのいう資本主義の構造は、「価値を創る者」とは別に、「価値を創れない者」は、そのまま低賃金労働を強いられるという残酷な現実も同時に炙り出してしまった。買う側と売る側は非対称で入れ替わり不可能ゆえに、価値を創るには飛躍的な挑戦が必要となり、とうぜん失敗者は無数に出ることになるというわけだ。しかし、牧口の「価値論」を基盤とした創価学会の信仰では、“「価値を創れない者」は、そのまま低賃金労働を強いられる”という残酷な現実を隠蔽している。いや、隠蔽どころか虚構(精神上)の価値があるとうそぶいた。

 牧口はマルクスの説く資本主義の構造を理解していたと思われる以上、池田大作ももちろんそれなりに理解していると考えるのが妥当であろう。この前提を踏まえたうえで、<価値想像>の意味を考えてみれば、創価学会内にはマルクスの指摘した資本主義の構造が反映されているので、ヒエラルキーの底辺にいる者は勝利・成功できなかった者、つまり<価値創造>を創り出せなかった者となる。そういった者たちに不満も文句も言わせずに宗教活動(労働)させることが資本家(池田大作や上層幹部)にとってはとても重要なことなのである。
 <折伏>や<広宣流布>、選挙活動もいわば、マルクスの説く低賃金労働(学会の無償活動)に当たる。文句もいわず進んで行う信者。これが宗教性を活用した創価学会マルクス解釈であり、おそらく松下幸之助が評価したのは経営者視点からの、この部分なのではないかと私は考える。
 しかし、マルクスの説いた構造を宗教に置き換えて、ヒエラルキーの構造の中身は隠して<世界平和>を唱え、低賃金で労働させる<信仰>のカラクリを正当化する態度は、私には美しくみえない。いいかえれば、資本家と労働者の非対称な構造に価値が生まれると説いたマルクス主義を、創価学会は信仰に組み込み、金銭でしかない価値体系を虚構の精神的なイメージへとスライドさせ、宗教を商売目的に悪用している。
 この「貨幣」と「宗教」の二重の虚構にマルクスの価値体系を当てはめていることに倫理的な歪みが生じているように感じてしまう。そもそも公平な「貨幣」信仰とは、私が信じている「市場原理主義」でしかないはずで、宗教(救済)目的の価値イメージなどマルクスの主張するところではないはずだ。言うまでもなく、この「貨幣」制度、資本主義は永遠ではない(宇宙誕生は約137億年前、地球誕生は約46億前、人類誕生は800万〜500万年前、資本主義の誕生はたかだが数百年に過ぎない)。

 これまで無知で盲目的な宗教感でぼんやり生きてきたことを私は恥じており、反省もしている。過去の栄光を妄信したまま創価学会に居残る亡霊(信者)たちが、忘却と反復を繰り返すように、若者の白痴を利用し、無根拠なエネルギーへと転化してしまうことへの重大さを意識していない振る舞いは、ゾンビ的な行動に私には映る。
 このような批判を口にすることは学会内ではタブーであるだろう。しかし、こういった指摘や批評が生まれない場では、決して「多様な意見」など生まれるはずがない。学会では批判的意見がタブーであるというような同調圧力・「空気」が漂っているのだろう。これでは創価学会の「空気」の一部としてしか存在しておらず、個人としての意思などないのであれば、それはひとりの人間、人格として存在していないゾンビのようなものであり、その蛸壺化したサークルは、ゾンビ企業のごとき延命(保身)にだけ必死な集団でしかないのではないか。このような団体や自らの意識をもたない個人を、私は「ゾンビ化」と呼ぶことにしたい。

 社会学者の山本七平は「空気の研究」の中で日本特有の空気についてこのように記している。
 『この「空気」とは一体何なのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解読も歯がたたない“何か”である。<中略>いまの今まで、「これこれは絶対にしてはならん」と言いつづけ教えつづけていた人が、いざとなると、その「ならん」を「やる」と言い、あるいは「やれ」と命じた例を、戦場で、直接に間接に、いくつも体験している。そして戦後その理由を問えば、その返事は必ず「あのときの空気では、ああせざるを得なかった」である。「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意思ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任は誰にも追及できない(P16〜17)』

 『「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるのかの原因を「うやむや」にしていることに気づかない点にも表れている。いわば「うやむや反対」の空気に拘束されているから「うやむや」の原因の追究を「うやむや」にし、それで平気でいられる自己の心的態度の追求も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気の拘束」である。そして少なくとも昭和初期以前の日本にはあった「その場の空気に左右される」ことを恥と考える心的態度の中には、この面における自己追求があったことは否定できない(P223)』

 つまり、個人としての意見は宗教や思想を基盤にして当然かまわないが、そこには責任や根拠が備わった上での発言でなければ、その言葉は「空気」と同じ無責任なものであり、あいづち程度でしかないということだ。自分の頭で考え、「心的態度の追求をうやむや」にしない。すなわち、他者の批判に向き合い、論理的かつ正当な反論を自分の言葉で、責任をもって述べることが必要なのではないか。

 Jくんの話をしよう。Jくんの<信仰>の動機は高校受験であると言っていた(サッカーでレギュラーを獲ることも言っていたがこの話は省く)。つまり、高校受験に合格するという目に見える形(物質化)での見返り(成功・勝利)の為の<信仰>である。そして、見事受験に合格したJくんは「この信心は本当にすごい」と悟るのである。

 しかし、先ほど言ったように、これは資本主義国家では「努力すれば報われる」と同義である。かんたんな例を挙げると、もし仮に私が「幸福の科学」を信仰し、高校入試に挑み、みごと合格したとすれば、「幸福の科学は本当にすごい」と信じて、それをみなに広めてもかまわないということになってしまう。Jくんの論理で行けばそういうことになってしまう。しかし、それは直接的な原因だと証明できないはずで、実際は「勉強の成果が実った」と考えるのが妥当であろう。したがって、Jくんの<信仰>心は、個人の努力の結果の賜物なのであり、創価学会の力とは無関係ということになる。それでも「創価学会」を信じるというのであれば、それは論理的に正しいとはいえず、ただ「そう思う」と言っているだけか、あくまで「おまじない」程度の効果である。もちろん、こう言うと、題目をあげることで勉強に集中できる、とか、甘えがなくなり努力を発揮できる、という反論はむろんあるだろう。しかし、Jくんが信仰を始めたときは、まだ信じていない。なのに、受験に合格した。これはつまり、Jくんの高校受験合格への切羽詰った想いや意気込みが勉強へと向かわせたのであり、信仰はその後に付いてきた理由付けでしかないことになる。夢や理想や目標に挑むとき、ひとは無根拠に自分を信じるほかない。それと信仰を同一視しているだけでしかないわけだから、とうぜんその信仰は無根拠なものでよいことになる。このようにJくんの主張では創価学会の素晴らしさを残念ながら証明できていない。
 批判したいのは2つ。1つは、自分の欲望(夢や目標や理想)を物質的な見返りを期待して<信仰>する宗教であること。2つめは、そのような宗教を他人の考えを尊重せず一方的に推し進めてくること。

 根源的な宗教性を必要としない人たちは創価学会を信じる=無根拠に自分を信じることができるので、自己啓発として利用しているとも言える。自己啓発とはつまり、(メンタル)ヘルスケアである。資本主義(とりわけ先進国)ではヘルスケア・ビジネスは価値を持ち、お金になる。

 美術評論家である椹木野衣は3.11後の鼎談でこのように述べている。
 『日本のように地面そのものが物理的に揺らいでしまう場所では、西洋で「構築的」と総称されるような体系、つまり建築を比喩として成り立ってきたような文化や哲学は、少なくとも西洋と同じようには存立しえないのではないか』
 この椹木野衣の問題提起をふまえれば、ヨーロッパのように基盤に哲学(宗教)が根付かない日本では、代替として流行によって変化するヘルスヘアのようなものが必然的に求められるのかもしれない。流動性のある占いやお笑い、アイドルやスピリチュアルなどが、さまざまな分野でニーズがあるのも納得がいく。そして、その一つの需要を創価学会のような「新興宗教」が担っているのはまちがいないだろう。

 個人的体験としてヘルスケアは重要である。「元気がでた」、「癒された」、「気分が楽になった」などは、ヘルスケアの効力であり、個人的体験であるのだが、何度も自分が違和感を持ち抵抗するのは、宗教は「祈ったから夢が叶った」、「祈ったから病気が治った」などと個人的体験を客観的事実にすり返えてしまうからに他ならない。

  物理学者である菊池誠は、「ニセ科学とつきあうために」という文章の中でこう述べている。
 『たとえば、宝くじの一等なんて、まず当たりっこないですが、でも必ず誰かには当たります。その人はもしかしたら、宝くじを買う前にどこかの神社でお守りを買っていたかもしれません。たぶん、その人は「ご利益」だと思うでしょうね。もちろん、それはただの偶然です。』

 『健康食品のたぐいには「体験談商法」というものがあります。「これこれを食べたら、こんな病気が治りました」という体験談を集めた本を売ったり、インターネットで体験談を紹介したりして、効果を信じ込ませるのです。体験談自体はもしかすると事実なのかもしれません。でも、それだけではなんの証拠にもなりません。たまたまかもしれないし、別の理由があるかもしれないからです。「体験談商法」のほとんどすべては「たまたま」と思っておいたほうが安全でしょうね(体験談そのものが捏造という場合もあります)。では、たまたまではないことをどうやって確認するのか。病気の原因を調べる疫学の考え方が役に立ちます。』

 疫学の考え方を菊池は図で表しているので、ここでは文字にして説明することにする。菊池がここで主張していることは、4つのパターンの統計で比較すれば嘘か本当かわかるということです。

 A:祈った→効果あり
 B:祈った→効果なし
 C:祈らない→効果あり
 D:祈らない→効果なし

 この4パターンを使います。

 そして、体験談とは、「A」のみ。つまり、「祈って効果があった」という個人的体験談だけである。ここで菊池が指摘しているのは、「A」、「B」、「C」、「D」、すべてを調べて統計を出せば真偽がわかっちゃうよね、という身も蓋もない正論である。
 このような話から、学会の学生部による「夢の達成」のスピーチを思い浮かべることができるのではないだろうか。これは紛れもなく個人的体験でしかない。そして、上の項目で言えば、「A」です。       
 このように学会では「体験談商法」と同じく成功体験談が頻繁に発表され、それを聴衆する仕組みとなっている。つまり、「A」のみを強調します。個人の成功体験を宗教の力にスライドさせ、祈れば叶うと思い込ませます。
 もう何が言いたいのかはもうお判り頂けると思うが、

 A:創価学会信者→夢が叶った
 B:創価学会信者→夢が叶わなかった
 C:一般人→夢が叶った
 D:一般人→夢が叶わなかった

 この4つのデータから統計を採って数値化して公表すれば、創価学会が唯一無二の宗教であることが簡単に証明できてしまうのだ。その結果、圧倒的にAの数値が高ければ、私は今すぐに入信して、生涯お題目を上げ続けるだろう。現代では科学的に証明できるはずのない、「何妙法蓮華教」の宇宙のリズムを盲目的に信じるだろう。しかし、これほど簡単なデータの公表だけで真偽を証明できるのに、証明させたい側が統計を採らないということは、逆説的に見れば、すでに答えが導き出されているのではないだろか。

 もう一度確認しておくが、個人的体験そのものは決して否定できない。個人が叶ったと思えば叶ったのだろう。その事実に他人は口出し出来ない。問題なのは、個人的体験(自己努力の結果である成功、勝利)をあたかも客観的事実(お題目の効果による成功、勝利)であるかのように脚色することに対しての断固たる抵抗である。
 誤解がないように願うが、ヘルスケア・レベルでの需要を新興宗教が一部担っており、それは資本主義(虚構)では必要なものであると考えている。つまり、私の主張はこうである。
 資本主義(虚構)に根ざした(と思っている根無し草の)創価学会は、そもそも宗教としての役割ではなく、バラエティ番組や占いなどとが担うようなヘルスケアとしての役割と、地域コミュニティー崩壊後(大きな物語の凋落)の代替としての「繋がり」の再活性化という役割をおもに果たしてきたといえるのだと思う。こう言うと、「バラエティ番組や占いと一緒にするな」と怒るかもしれないが、誤解しないでほしい。
 ここでまた牧口の「価値論」を引いてみることにしよう。

 『我々社会に通用している価値と云う語が何を意味するのかを最も公正に見きわめて、その本質を補足しなければならない。此の語の最も早くから用いられたのは経済的な意味においてであろう。価値即ち「値(ね)うち」のあるということは、欲望充足の対象とするに足るということである。(P.85)』

 経済的な値打ち、すなわちお金儲けに繋がれば、それは一定の価値があるということを牧口は述べている。とうぜんバラエティ番組は視聴率の見込める大きなジャンルだし、あらゆる場所で、占いや運勢診断の記事などを目にすることができるだろう。このように「値打ち」があるということは、牧口の「価値論」を基盤とした創価学会の掲げる<価値創造>と同等の意味において、素晴らしいものなのである。よって、創価学会への勧誘や<折伏>でアイドルや芸能人の名を自信たっぷりに口にするのではないか。

 このような細かい指摘を続けると「そんなに小難しく考える必要ない」、「そんな考えだと損するだけ」という嘲笑的な批判もあるだろう。おそらく資本主義でのその指摘は正しい。Jくんも「自分の為だけに祈ればいい」と言うように、言い換えれば、「世界平和なる抽象論を独善的に妄信し、たんなる私利私欲を自己欺瞞的に正当化する宗教」は、多くの人に都合が良いだろう。だが、自分の成功のためだけに<信仰>し、物質的な見返りを得るための宗教がはたして宗教足りえるのだろうか? もちろん経済的に自立できない者が他人を幸せにすることはできない、という反論は至極正論ではあるのだが、みながそうなるべきだという主張になると、全体主義的な単一的な思想を作り出す危険性があり同意できない。ひとつ正当化できるとすれば、それは資本主義を<信仰>しているという潔い居直りである。つまり、私のように、「市場原理主義」を信じていると言うことである。

6.カルトとしての創価、洗脳の大罪

 フランスなどヨーロッパ数カ国では創価学会がカルト(セクト)団体に指定されている。

 カルト団体と認定したフランス側が問題視しているのは、創価学会が信者たちみずからの子供に対しても同じ<信仰>を持つように仕向けている点が子供の自由(人権)を奪っているということである。家族単位、世帯単位での布教を改めない限り、セクト団体として監視される対象であり続けるという主張だそうだ。さすが、人民によって「政教分離」を勝ち取った国(フランス革命)のごもっともな指摘であり、理念であると思う。

 そういえば私も以前、「親が自分の宗教を子供に押し付けるのは虐待でしかない」と聞いたことがあり、それを思い出した。いくら自分の子供だとしても生まれ出たら、その時点で一個人としての自由があるのであり、親が思想のあれこれを規定し、押し付けるのは基本的人権に反する行為であると言えるだろう。親は子供をできる限り自由に育てることが望ましく、それは人間を尊重するという意味において普遍的な思想だと言えるだろう。
 誤解ないようにいうが、それは放任主義を意味しない。放任主義とはつまるところ、親の責任逃れでしかない無責任な態度である。仮に放任主義が成り立つのであれば、それはいざという時に介入できるように、常に「まなざし」だけは向けながら、安全の範囲内で管理・監視することを意味するはずだ。
 もちろん一定期間の道徳感などの教育は必要だろうが、それが単一的であると教育上、かたよりがでて良くないのではないか。親の価値観はどうしたって子供に投影されるだろうが、子供(一個人)が親と違った価値観を持ったとしても問題はないはずだ。
 つまり、ここでも他人に対する態度の問題が浮かび上がるのではないか。一方的に自分の主張を押し付ける=創価学会。多様な価値観を認める=人権を尊重。と、また最初の問題提起へと戻ることになるだけである。 

 他人への無理解から来る「信仰の強要」や「脱会阻止のための脅し」を受けた上での反論だというのを前提にして言わせてもらうが、中途半端なマインドコントロールは、子供を混乱させ、そのマインドコントロールが解けたときには、それまでの感情が「怒り」へ転化するだろう。また、半端な洗脳はそれが解けるまでの日々を苦悩の日々として送ることになるだろう。 洗脳は解けるまで、それが洗脳だと気づかない。しかし、一度解ければ、それまでの過去は、虐待の記憶へと塗り換わるだろう。中途半端な洗脳の失敗は悲劇であると言えよう。塗り換わってしまった幼少期の思い出は色褪せたままであろう。弱い者(子供や障害者)にも自由が与えられてこそ民主主義である。自由とは開かれた多様性である。
 インドの教えをひとつ。日本では「世間に迷惑をかけてはダメ」だと子供に教えるが、インドでは、「そもそも人は生きている以上迷惑をかけてしまう存在なので、他人には寛容になろうね」と教えるという。「単一的な無理解」から「多角的な尊重」へ、私の提言もこれと同じであるが、創価学会の思想とは真逆なので、私はずっと苦しんでいる(笑)。

 さて、もう一度「洗脳」の話へ戻そう。
 ファシズム北朝鮮の独裁も大日本帝国天皇崇拝も、いってみれば国家の戦略的な過度なパターナリスティック(家父長制度的)な教育(教化・洗脳)に紐づいている。
 中国や韓国の歴史教育もいわば「洗脳」であり、日本のあったことやなかったこと(南京大虐殺竹島尖閣問題)が過度に歪曲して教えこまれているのであり、中国や韓国の人民が反日感情を抱くのも教化=洗脳されているため当然である(しかし、すべてが嘘で日本の主張がすべて正しいとも思っていない)。問題なのは「正しい教育」なのだが、創価学会も同様に、中国や韓国も自国/学会の利益のために自分に有利な曲解をしてしまう。
 その上で大事なのが何度も反復して述べている「多様性の容認」なのは、もはや自明であろう。

 北朝鮮では国外の情報を国民が知れないように国が管理している。中国でもインターネットの閲覧が国により規定させている。そのような状況下では自国を批判する声はシャットアウトされ、自己正当化のみで物事が構築されていく。このように多様性が失われた社会で、ひとたびインターネットが解放されたり、世界中を旅する機会に恵まれたりすれば「多様な価値観」を知ることができ、そこに論理的に物事を考える能力がわずかでも備わっていたなら、自国の教育がいかに嘘で塗り固められた洗脳教育であったかがわかるだろう。少なくとも何か「おかしい」という疑問を持つだろう。そう思えるのは、私たちが北朝鮮の外側(客観的立場)にいるからだ。 大きなシステムの問題点で言えば「教育制度」の改革なのだろうが、個人レベルでの問題点でいえば「客観的な視点(メタ視点)」が必要になるのだと思う。
 つまり、自分の利害関係や立場から離れて、遠巻きに事態を眺めてみること。感情的にならない場所まで距離をとり、冷静に物事を把握して自分の頭で考えてみることでなかろうか。

 フランス革命の土台となった思想家ルソーの著書「社会契約論」ではそのような考え(一般意思という概念、いわば間主観的な想いの総体のようなもの)が展開されているが、詳しい内容はここでは省く。また、上記での梅原猛のいう、一切の利害関係から離れて意見する、という主張とも重なる考えである。
 もっとわかりやすく、子供にでもわかるように言うなら、「はだかのおおさま」の物語を思い出してほしい。あそこに描かれていることは、周りの空気や意見に左右されて、自分の考えや意見を無くしてしまうと「恥」をかくよってことです。
 思い込むことによって、つまり観念的になってしまって、自分の頭で考えることを止めてしまい、他人の意見・反論に耳をかさなくなって、ひとつのことだけを信じてしまうと、思い込みは激しくなっていきます。それがさらに酷くなると「洗脳」とよばれる状態になります。やがて行くところまで行けば、「恥」を「恥」と感じなくなってしまい、そうなると他人との会話はもう噛み合わず、専門家の治療が必要となるレベルにまでいってしまいます。
 「はだかで歩くことが恥ずかしくなくなる」のなら問題ないのですが、問題は「はだかなのに、はだかじゃない」と思い込んでしまう、その「思考回路」にあるのです。
 それをソクラテスは「無知の知」といいました。ソクラテスは自分が無知であるということを知っているから、なんでも知っていると思い込んでいるあなたよりも私は賢いという論法です。つまり「謙虚な姿勢」ということです。これが哲学(智)の古典(始まり)です。