10.創価学会の中心思想である「価値論」崩壊の証明

 東日本大震災によって引き起こされた津波被害を目の前に、宗教の無力さを、人間ひとりの非力さを突きつけられた。また、震災と人災によって併発された原発事故により、文明の危機が露呈した。安全・安心の刷り込みによって、私たちは原発を妄信してきた。それは学会員にとっては、創価学会を妄信してきたことと同じ意味である。原発事故という文明災は、近代社会の問題であり、資本主義の問題点を炙り出したといえる。池田大作創価学会公明党原子力に沈黙した。本質的な話にしか興味がわかなくなっていた私は何のためらいもなく創価学会というゲームから離脱した。

 どうして、創価学会原子力の問題に沈黙したのだろうか?

 その答えを私は知ってしまった。私が自分の頭で考え続けてきた論理的な道筋がけっして間違っていないことが証明されてしまった。牧口みずからが著書に記してしまっているのだ。「価値論」ではカントの「真・善・美」の普遍的思想を強引に「利・善・美」と読み替えたことで成立している(ここに批判するなら、牧口は認識することにだけ価値があると言っている。つまり意識に上らないものは無価値であると述べているのだが、フロイトのいう無意識の欲望(エス)などであっさりと反論できてしまうだろう)。
 牧口が「真」を「利」に読み替えた理由は、たんにマルクス主義に触発されてそれをそっくりそのまま使って新興宗教をでっち上げるためだったのだと思う。
 つまり、キリスト信仰者であるカントの「真・善・美」を基盤に用いていながら、キリスト批判を行い、「真」の部分をマルクスの「利」と入れ替え、マルクスの「価値体系」を勝手に宗教に当て嵌めている。その宗教の根幹は、日蓮正宗に依拠しているのに、日蓮正宗からは波紋されている。そもそも仏教はインドから中国を渡ってやってきた輸入物であり、そこから派生し、乱立した新興宗教のひとつにすぎない。これらを踏まえたうえで結論へ向かおう。
 どうして、創価学会原子力の問題に沈黙したのだろうか? 「価値論」にはこうある。

 『科学が純粋の真理を求めつつ、しかも討究して得られた定理が人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も純粋なる生命哲理を最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。譬えば、原子核の分裂と云う事は今の科学に於いては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。
同様にこの最高無上の定理は定理として止まることなく、各人の幸福・社会の幸福を築かんがために、御本尊として行動化されている。即ちこの御本尊を信じ、この本尊に向かって南無する時に、各人の希望は叶えられ旺盛なる生命力は培われてここに平和な社会が建設されるのである。(P.145)』

 この文章を読んで何か補足することがあるだろうか? 牧口は原子力の発展を全面的に素晴らしいと感じたようだ。いわば、科学の技術革新を単純に妄信していたと言えるだろう。戦争抑止のために原子爆弾を所持することが「世界平和」に繋がると言っている。どう読んでもそのように言っている。原子力発電にも、もちろん全面的に指示しているのは自明だ。なぜならそれは、原爆と同じ核分裂反応だからだし、原爆のほうが遥かに危険性が高いからだ。
 アインシュタインの論理が期せずして原子爆弾を生み出してしまったのだが、牧口はその原子力技術を人間の勝利かのように反射的に妄信してしまったがゆえに、それを御本尊の人間生命の源であると熱く語ってしまったのだろう。たしかにこの当時、おおくの人々が、科学によって宇宙をも制御(コントロール)できる時代になったと浮かれたのだろう。しかし、哲学者のハイデガーなどは原子力技術の問題点を同時期にすでに指摘していた。つまり、ハイデガーは人間の技術を妄信せず、人間は失敗をする生き物だという前提に立ち、原子力の危険さ、放射能の危うさを熟知していたがゆえに、冷静に問題を指摘できたのである。創価学会の過信と対極の謙虚さの明暗はこのときからすでにはっきりしていたようだ。

 このように、3.11を境にどちらが正しいかはもはや口に出す必要もなかろう。
 こうして創価学会の宗教の土台は崩れ去り、御本尊なるものはメルトスルーと共に甚大な害だけ垂れ流した。創価学会原発を否定できない理由が利権や癒着よりも、もっとコアな部分(核分裂技術は生命の定理であり、御本尊の行動化)であったのだ。
 あとは老朽化した原発廃炉と同様に、御本尊の廃棄物処理を待つのみとなってしまった。瓦礫処理問題と同等に各人の仏壇処理は難航することになるだろう。
 私が一貫して指摘してきた資本主義を盲目的に信じている宗教と言っていきたことがこれで証明されてしまった。私の理論がこのような形ではっきりと証明されてしまい、肩透かしを食らったようだ。なぜなら創設者みずからが、デタラメな宗教であるということを中心思想の著書に書き綴っており、それが将来において必ず証明されてしまうことを予言されておられたからに他ならない。あまりにもずさんな宗教理論で残念でしかたがない。

 原子力技術のイノベーションに浮かれてしまったことが致命的な失敗の原因なのだが、それは多くの人が陥る罠でもあるだろう。私も科学的根拠の証明にある種の絶対的真理を読み取ってしまっていた部分がある。しかし、「多様な意見を知る」ことで、そのような妄信が暴走してしまうのをある段階で押さえることが可能なはずだ。「ヘーゲル弁証法」のアウフヘーベンのように。

 幹細胞生物学者である八代嘉美は「私たちはどのような未来を選ぶのか」のなかでこのように述べている。引用してみよう。

 『社会には、科学に対するさまざまな幻想が存在している。その中で最も大きく、最も厄介なものは「科学には必ず正解がある」というものではなかろうか。』
 
 『実際に研究に関わるものは、先端の科学に「正解」と言われるものはないことを知っている。存在するのは、その時点で、最も合理的に説明できる「共通理解」でしかなく、その理解も反証が出現すれば覆るのである。』

 このように、八代は一般的に抱きがちな「科学の幻想」を丁寧に解きほぐそうとしている。著書のなかで四つの幻想として、「確かさの幻想」、「擬似確信の幻想」、「絶対的真理の幻想」、「応用可能性の幻想」があると指摘している。このような幻想は、一般的な知識ではブラックボックスとなるために生じてしまう。
 宗教の幻想も宗教科学という言葉があるように、宇宙理論を科学的に証明しようとする行為である。そのため原子レベルの話が多用される。しかし、そこには「絶対的真理の幻想」が横たわっており、「正解」はなく、また「共通理解」とよべるような社会的コンセンサス(合意)は得られておらず、その宗教のなかでしか通じない、いわば閉じたコミュニケーション内でだけ成立するゲームであるということを理解せねばならない。
 社会的な「共通理解」とは、開かれた言葉で論理的に整合性がとれているかどうかである。そこでは柄谷行人のいう「他者の他者性」に直面せざるを得なく、実践には「命がけの飛躍」が必要となる。

 最初に述べたように、「多様な価値観を認める」という主張をくり返し述べてきたわけだが、この文章が誰かの無理解な言動を少しでも和らげることができたり、<折伏>による心ない他者の否定を少しでも理解しようとする姿勢に向かわせたり、みずからの盲目的な<信仰>に対して少しでも考えてみる時間を設けてくれれば私の「対話」にも少なからず効果があったことになる。

 「基本的人権からなる多様な考えかたを認める」ことと、「信念を持つ」ことは矛盾しない。信念を持つということは、裏打ちされた論理が必要となる。その説明なくして一貫性のある信念は生まれないだろう。創価学会の中心思想である<価値創造>は、原子力革新を盲目的に信じることで成立していたことが実証されてしまった。これは「貨幣」制度(資本主義)の妄信と変わらない。「貨幣」制度もいずれ電子マネーへと意向するだろう(NFC機能など)。そういう意味において、創価学会の根本思想は普遍的妥当性を持っていなかった。
 あの時代は、原子力技術などの発展で、宇宙をも制御できるという高揚感に満ちた、人間を過信しすぎた社会であったのだろう。しかし、その浮かれた空気のなかでこそ、私たちは冷静に本質を見据えなければならない。バブルに浮かれて弱者の救済を無視してきた代償は、あまりにも大きかったことをこれからさらに実感することになるだろう。

 創価学会の信仰は、3.11により崩壊した。いや、正確には私たちは原子核分裂を3.11より以前に敗戦によって体験している。牧口は奇しくも広島原爆の9ヶ月前に亡くなっており、広島原爆投下による核爆発の「それ」を知らない。彼にとってのその惨劇は、「無価値なもの」としてありつづける。実際者に重きを置き、「利」のみを追求し、意識に上らないものは「無価値」であるとした牧口は、あろうことか核分裂反応を最高無上の定理であるとし、その行動化として御本尊もあると言い切っている。
 私たちは広島原爆により、すでに「価値論」の定理が破綻していることを知りえていた。つまり、戸田も池田も、信者たちも、「価値論」を読んでいたのであれば、この矛盾を知っていたはずである。創価学会にはこの矛盾への説明責任がある。
 むろん敗戦から10年以上経った1957年に、戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を示したことは知っている。しかし、根底の牧口の思想の間違いを認めたわけでもなければ、方向転換したという説明もない。戸田の行動はもしかすれば、切実なものだったのかもしれない。しかし、歴史が証明するように、創価学会(池田)はその宣言にも責任を持たず、公明党はテロ撲滅と核兵器所持を理由にイラク侵略に加担した。しかし、イラク核兵器はなかった。ジャーナリストの常岡浩介は「勝機はインド以西にあり」の論考のなかでこのように述べている。
 『大量破壊兵器開発疑惑に十分に答えなかったのは、米国やイスラエルへの敵意によるものではなかった。<中略>サダム・フセインが証言したのは、「すでに丸裸にされていることをイランに知られるわけにはいかなかった」という内容だった。イラクにとって、安全保障上の第一の脅威はイランだったというのだ』

 このように、アメリカの侵略戦争に加担した公明党は、イラク核兵器がなかったことが証明された時点で間違いを認め、謝罪や弁明の責任が確実にあったのではあるが、やはり何も言わなかった。そのことに多くの信者が無関心であることが、「世界平和」の無責任さを物語っている。

 以上のことからわかるように、創価学会は数々の致命的な失策をなんども重ねているが、釈明も弁明もしてこなかった。それは、学会員が現実を見ずにただ妄信し、自己啓発による私利私欲のために「世界平和」という言葉を冒涜し続けてきたことを意味している。このような現実を見ようとしない、意識しようとしない態度はゾンビのようにおぞましい。正論を投げかけてもまったく通じず、おそろしいほどの執念でドアを何度も叩いてくる。その度に関係性の溝は深まっていくばかりだろう。そして、理解の得られないものを頭がおかしい、罰が当たると排除して自己正当化を図る。
 隠蔽かイリュージョンか洗脳かもう何でもよいのだが、その程度のものなのか、宗教とは!

 一連の内容を受け入れるか、信じないのかはもちろん、あなた次第である。この過程を経て出た結論ならば、私はそれを「多様な価値観」として、個人のひとつの意見だとして、ゾンビ化した創価学会を、また尊重し受け入れなければならない。その折り合いの付け方は大切だ。
 3.11で浮き彫りになった日本社会の現実とは、じつは唯一の被爆国である私たち自身で築き上げてきた虚構の産物でもあった。おそらくは、私たちはそこからやり直さなければならない。

 最後にもうひとつだけ。「郡盲評像」(ぐんもうひょうぞう)という四字熟語がある。意味は、数人の盲人が互いに象の一部を触りながらその物体を評するという意味だ。つまり、象は大きさの比喩で、盲人のように一部の観点から得た事象だけで、それを真実だと思い込む滑稽さを表している。
 かんたんに言ってしまえば、箱の中身を当てるクイズのようなものだ。目隠しをした回答者はそれを必死に当てようとする。たとえば、象の「鼻」を触ったとして、「これは大蛇に違いない」と回答すれば、視聴者はそのおかしな回答を聞いて、馬鹿だの阿呆だのと言って笑うだろう。

 この「郡盲評像」という四文字で、創価学会の単一的な思考を表せないだろうか。「世界平和」のような手垢のついた抽象的な言葉のイメージに、“なんとなく”惑わされてしまうのではなく、世界の全体像をできるだけはっきり描いてみてほしい。どうか多様に開かれた視野を。