9.終わりのまえに

 この創価学会批判により、何か災いが起こると実父から断言され、ショックと共に噴飯ものでもあるので、もう少しここで反論しておくことにする。もし仮に災いだろうが天罰だろうが、不幸が訪れて死んだとしても、池田大作の息子の次男が29歳という若さで死んでしまっているという事実は覆されない。
 その上で、もし自分が仮に親より先に死んだからといって、それがいったい何の意味を持つというのだろうか。それは解釈の仕方でどのようにでもとれてしまうだろう。そういった否定的な嫌がらせレベルの信憑性のない予言めいた冗談にしてはいささか度が過ぎる発言は、身勝手なレッテル張りであり、色眼鏡の何ものでもなく、偏見の塊でしかなく、誰も幸せにしない清々しいほど無責任で、残虐すぎるあまり痛快な暴力発言でしかない。 

 脱会者に心無い野次を飛ばすより、自らの<折伏>の脆弱さを反省すべきだろう。全盲の親がいる子供はおそらく不幸であろう。その上で宗教は必要である。救いとはそのような人に与えられるべきだ。しかし、村八分にあった過去や自らの脆弱さからくるルサンチマンを感情のはけ口としているにもかかわらず、どこから湧いてくるのか選民意識でルサンチマンを隠蔽しようとする心もとない父権(独裁主義)的なずさんな粉飾劇は、私には凝視することがとてもできない。
 その自らの<信仰>心に罰があたらないことが、すでにこの宗教の信憑性のなさを自ら体現し、証明しているといえよう。自らのその矛盾の数々を散らかしたまま片付けようとしなかった行為は、私の洗脳を解いた原因でもあるので、その点においては素直に感謝したい。
 そしてまた、勝利・成功の宗教を<信仰>するわれわれ血族および親族は、私の知るかぎりにおいて残念ながら誰一人、勝利・成功してはいないという悲しい現実がある。「すでに成功している、勝利だ」という反論には、「それだったら創価学会以外の人たちも立派に成功・勝利している」と返せば済む。
 牧口がマルクスをトレースしたように、池田は私利私欲を<価値創造>と抽象化し、高度成長を前提にしたイリュージョン的宗教感を推し進めた。しかし、それはいまでは通用しないだろう。
 それは政治にも当てはまり、私たちの日本の問題は、右肩上がりの成長を前提とした上でつくられた制度の変更の着手に迫られているのだ。年金制度が持続不可能な制度であることがその好例である。
 創価学会もまた同様に、右肩上がりの幸福を扇情する<信仰>からの転換に迫られているのではないか。ヘルスケアとしての役割ならほかにいくらでも自分にあったものを見つけられるはずだ。私たちの社会はこれからより透明性を重視し、「多様な価値観」を認めるグローバルな視点を持つことになるだろう。日本の高齢化・人口減少は大胆に移民を受け入れることでしか解決策がないと多くの人が指摘する。そのような多民族社会で<折伏>を迫れば、とうぜんイスラムヒンドゥーやローマカトリックなどの信仰者を避けられなくなる。そのようなときに「他者を認める態度」、つまり尊重があるのであれば、<折伏>などできはしないだろう。創価学会こそが唯一無二の信仰であり、他宗教は邪教であるといってしまえる選民主義的な神経では、これからの世界で通用しない。
 
 これまでの発言が創価学会信者の心を傷つけてしまったなら申し訳ない。でもこれは最初に述べた「言論の自由」であり、私は自らの主張に一貫性があり、きわめて論理的なことしか言っていないと自負しているので、単純な創価批判だと思われることもないという想いの下で書いている。
 しかし一部の創価学会信者は、この文章を書いたことで罰が当たるというかもしれない。現に脱会の動機も聞こうともせずに、一方的に罰があたると他者に向かって述べてしまえるほどだから、ある一定数はそういう人もいるのだろう。
 そういう人がいることを踏まえて、池田大作の発言を引用してこの章を終えることとしたい。 

 「御本尊さまに題目を唱えるならば、いっさいの罪は消えていきます」(ソースhttp://www.youtube.com/watch?v=yF_C9a37B3Y 0:56秒〜)

 このように池田大作自らの口で救済があると仰せられております。
 どんなことをしたとしても、仮にもし私に罪があったとしても、ひとたび題目し、祈ればすべての罪は消えてしまうのであります。素晴らしい宗教じゃないか。いまここで祈ってみよう。
 すべての罰はいま消えました。