3.創価学会とは何か

 個人的な脱会の動機は上記で述べたが、ではいったい自分は創価学会をどのように捉えていたのか、また、そもそも宗教/信仰とはどんなものだと考えているのかということについて書いてみたい。東日本大震災は生きることへの本質的な部分を考えさせられる災害であり、戦後はじめての国難だと多くの人が口にした。

 創価学会は言うまでもなく、戦後つくられた新興宗教だ(創価教育学会は1930年に創立したとされているが「創価教育学会」を「創価学会」に改称したのは1946年3月。終戦は1945年8月15日。正式に認められたのは1952年、宗教法人の認証を得る)。

 私の解釈では、創価学会創価教育学会)は、戦中に獄死した牧口の意思を継いだ戸田が、学問や出版で事業を広めていたが、やがて日蓮大聖人の教えを前面に出す方針に舵を切り、宗教色を強めていった。戸田の死去後、池田がトップとなり、カリスマ性をいかんなく発揮し、人員を増やし、組織化していった。そのタイミングと重なるように、戦後高度成長期という右肩上がりの日本経済が到来し、バブルの流れに乗った<信仰>を旗に創価学会の勢力はうなぎ登りに拡大していき、今に至る、と大雑把捉えている。
 このように感じるのは、80年代生まれという世代の問題も大きいのかもしれない。80年代は、実質的には、バブル(右肩上がり)が崩壊しており、右肩下がりの時代への移行期に突入していたからだ(実際、庶民の生活に影響を与えるのは80年代後半ごろ)。
 それは、親同士で発する「不景気」という合言葉や、教員たちによる「就職難」という擦り込みで実感せざるをえなかったし、政治の衰退や日経平均チャートをみれば一目瞭然である。

 そんなわけで右肩下がりの80年世代後半には、すでに創価学会的ながんばれ(題目すれ)ば報われるという高度成長期と同期した信仰の魔法は効力を失っていたのではないか、と今考えれば思う。
 ここで何が言いたいのかと言うと、創価学会の成功とは、高度成長期に支えられた(部分が極めて大きい)宗教であり、その成功は、必然的に資本主義的な宗教でなければならなかったということである。
 資本主義的な宗教とはどういうことか。それはかんたんに言うと、<信仰>により物質的な成功が得られるということだ。これが資本主義的(戦後民主主義的)宗教感であり、創価学会の宗教感であるのだと考える。
 そのように考えてみれば、日蓮正宗からの破門は必然的なのだと私は納得してしまう(破門による詳しい成り行きにはそもそも興味がないので細かい部分は省く)。

 創価学会初代会長、牧口常三郎の「価値論」を引いてみれば、『使用価値交換価値、価値の概念はマルクスの経済学にとっては、もっとも基礎的な概念である。之を知ることなしにはマルクスの経済学説は到底理解されない――とは、「マルクス経済学」の著書高畠素之利氏の告白である。この前項はそっくりそのまま創価学説に移しても妥当であると思う。(P.15)』

 このように、この時期の日本ではマルクス主義が広まりつつあったことがわかり、牧口本人もこのマルクス主義で主張している資本主義の構造を知ったうえで、これを「そっくりそのまま創価学説に移しても妥当」だと言っていることからも、創価学会マルクスの説いた資本主義を基盤にして始まった宗教(学会)であるということがわかる。

 資本主義の発展には「貨幣」制度が成功したことが大きいとされている。日本は、昔は農耕民族であり、農作業による労働の対価=作物の収穫量、という目に見える形であった(それとは別に、人の力の及ばないものとして、天災などで収穫量は大きく左右されるため、必然的に自然を神とし拝んでいた)。

 しかし、「貨幣」制度がはじまり、労働の価値観は激変する。マルクスがいうように、物と物の物々交換は対象性があるが、「貨幣」を介在させた価値形態での関係は、非対称性となる。つまり、売る立場と買う立場は入れ替わらない。
 ユニクロの服は千円で買えるが、プラダの服は何万円もする。そして、どちらもその値段で買い手が一定数存在する。自作した服を100万円で売ろうが自由だが、そこに買い手が現れなければ売買(価値)は成立しない。このように、価値(ブランド)によって、その商品の値段は成立する。

 当たり前だが、「貨幣」の価値は数値化され、一定(貧乏人の持つ壱万円札も、資産家の持つ壱万円札も同じ価値)である。つまり、物質化された「貨幣」に一定の価値があると規定し、みながそれを信じることによって、資本主義は成り立っている。言い変えるとわれわれは、大前提として「貨幣」制度を<信仰>していることになる(だから、アメリカの経済の見通しが悪ければ、ドル通貨の「価値」は相対的に下がり、金(ゴールド)や銀(シルバー)などの資源に資金が流れ、価格は高騰する)。くり返しになるが、私たちは、壱万円と印刷された“紙切れ”に、「付加価値」があることを前提(信仰)としているのだ。

 このように、突き詰めればわかるように、「貨幣」制度とは、虚構を前提にしている。経済学者の池田信夫は、「健全な民主主義が機能している国では健全な資本主義が発達する」と述べるように、「人民のための社会」というキャッチフレーズ(=民主主義)の名の下に勢力を拡大してきた池田大作期の創価学会の「価値(創造)」とは、日本経済の「貨幣」価値が青天井で高騰をつづける80年代後半がピークであったといえるだろう(1989年、日経平均は38,915円の至上最高値をつけた。現在は9000円前後と、おおよそ4分の1の価値と評価されている)。
 つまり、「お題目」によってのフィードバックは、「貨幣」の価値を内包した何らかの物質的な形を意味せねばならず、「発展・成功・勝利」とは、結局のところ、日本の高度成長がこれからもずっと続くと思い込んでいたにすぎない、と言えるだろう。少なからずそのような幻想がこの時代にはあり、それを前提としていた。
 だから、題目し、祈れば、物質的な形となった見返り(成功、勝利)が反ってくると信じられた。バブル期の日本では、そのように思い込んでしまう人がいたのもある意で味仕方がなかったのかもしれない。しかし、歴史が証明するように、バブル(泡)は弾ける。そしてまた別のところでバブルは起こる。それが資本主義=民主主義の歴史であり、池田大作はそれを肯定していた。
 創価学会の急速な成長は、バブル幻想によって引き起こされ、資本主義という虚構を前提とした社会を<信仰>することで成り立っていたのであれば、それは資本主義(貨幣制度)を<信仰>していることと、どう違うのか。そのような新興宗教をはたして宗教と呼んでよいのだろうか。

 創価学会は、お題目や宗教活動などの<信仰>を行うことにより、物質的な見返り(勝利、成功)が返ってくると説くわけだが、かんたんに言ってしまえば、資本主義での「努力すれば報われる」と同義でしかない。それ以上でも以下でもない。言い直すと、金銭的成功者、社会的勝利者が偉いという拝金主義的、成果主義的であり、その思考はあまりに世俗的、また単一的な価値観でしかない。その近代的な資本主義という虚構でしかない現実が拡大し、発展していくことを信じることが本来のマルクス主義を肯定とした牧口による創価学会の教えである。
 そういった盲目的な<信仰>は、一見一途で純粋なものに映るかもしれないが、信じるとはある意味において、「思い込む」ということでもあり、それは思考を止めることでもあり、厚顔無恥に見えてしまう危険性も孕んでいる。現に牧口は、マルクスの考えは創価学会にも当てはまるといっている以上、「成熟された資本主義はやがて社会主義に戻る」というマルクスの結論の意味を想像せねばならないはずだ。
 マルクスの指摘する資本主義は、ヒエラルキー(ピラミッド型)の底辺を支える大多数の層に、低賃金で文句なく働いてもらうことが、ヒエラルキーのトップ(資本家)にとって重要なことになる。数人の頂点に君臨し続ける者たちが一番おそれることは、人民が結託して革命が起こり、地位が転覆することだ。正当にヒエラルキーの上へと登るには飛躍的な価値を創りださねばならない。
 このように、マルクスのいう資本主義の構造は、「価値を創る者」とは別に、「価値を創れない者」は、そのまま低賃金労働を強いられるという残酷な現実も同時に炙り出してしまった。買う側と売る側は非対称で入れ替わり不可能ゆえに、価値を創るには飛躍的な挑戦が必要となり、とうぜん失敗者は無数に出ることになるというわけだ。しかし、牧口の「価値論」を基盤とした創価学会の信仰では、“「価値を創れない者」は、そのまま低賃金労働を強いられる”という残酷な現実を隠蔽している。いや、隠蔽どころか虚構(精神上)の価値があるとうそぶいた。

 牧口はマルクスの説く資本主義の構造を理解していたと思われる以上、池田大作ももちろんそれなりに理解していると考えるのが妥当であろう。この前提を踏まえたうえで、<価値想像>の意味を考えてみれば、創価学会内にはマルクスの指摘した資本主義の構造が反映されているので、ヒエラルキーの底辺にいる者は勝利・成功できなかった者、つまり<価値創造>を創り出せなかった者となる。そういった者たちに不満も文句も言わせずに宗教活動(労働)させることが資本家(池田大作や上層幹部)にとってはとても重要なことなのである。
 <折伏>や<広宣流布>、選挙活動もいわば、マルクスの説く低賃金労働(学会の無償活動)に当たる。文句もいわず進んで行う信者。これが宗教性を活用した創価学会マルクス解釈であり、おそらく松下幸之助が評価したのは経営者視点からの、この部分なのではないかと私は考える。
 しかし、マルクスの説いた構造を宗教に置き換えて、ヒエラルキーの構造の中身は隠して<世界平和>を唱え、低賃金で労働させる<信仰>のカラクリを正当化する態度は、私には美しくみえない。いいかえれば、資本家と労働者の非対称な構造に価値が生まれると説いたマルクス主義を、創価学会は信仰に組み込み、金銭でしかない価値体系を虚構の精神的なイメージへとスライドさせ、宗教を商売目的に悪用している。
 この「貨幣」と「宗教」の二重の虚構にマルクスの価値体系を当てはめていることに倫理的な歪みが生じているように感じてしまう。そもそも公平な「貨幣」信仰とは、私が信じている「市場原理主義」でしかないはずで、宗教(救済)目的の価値イメージなどマルクスの主張するところではないはずだ。言うまでもなく、この「貨幣」制度、資本主義は永遠ではない(宇宙誕生は約137億年前、地球誕生は約46億前、人類誕生は800万〜500万年前、資本主義の誕生はたかだが数百年に過ぎない)。

 これまで無知で盲目的な宗教感でぼんやり生きてきたことを私は恥じており、反省もしている。過去の栄光を妄信したまま創価学会に居残る亡霊(信者)たちが、忘却と反復を繰り返すように、若者の白痴を利用し、無根拠なエネルギーへと転化してしまうことへの重大さを意識していない振る舞いは、ゾンビ的な行動に私には映る。
 このような批判を口にすることは学会内ではタブーであるだろう。しかし、こういった指摘や批評が生まれない場では、決して「多様な意見」など生まれるはずがない。学会では批判的意見がタブーであるというような同調圧力・「空気」が漂っているのだろう。これでは創価学会の「空気」の一部としてしか存在しておらず、個人としての意思などないのであれば、それはひとりの人間、人格として存在していないゾンビのようなものであり、その蛸壺化したサークルは、ゾンビ企業のごとき延命(保身)にだけ必死な集団でしかないのではないか。このような団体や自らの意識をもたない個人を、私は「ゾンビ化」と呼ぶことにしたい。

 社会学者の山本七平は「空気の研究」の中で日本特有の空気についてこのように記している。
 『この「空気」とは一体何なのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解読も歯がたたない“何か”である。<中略>いまの今まで、「これこれは絶対にしてはならん」と言いつづけ教えつづけていた人が、いざとなると、その「ならん」を「やる」と言い、あるいは「やれ」と命じた例を、戦場で、直接に間接に、いくつも体験している。そして戦後その理由を問えば、その返事は必ず「あのときの空気では、ああせざるを得なかった」である。「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意思ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任は誰にも追及できない(P16〜17)』

 『「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるのかの原因を「うやむや」にしていることに気づかない点にも表れている。いわば「うやむや反対」の空気に拘束されているから「うやむや」の原因の追究を「うやむや」にし、それで平気でいられる自己の心的態度の追求も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気の拘束」である。そして少なくとも昭和初期以前の日本にはあった「その場の空気に左右される」ことを恥と考える心的態度の中には、この面における自己追求があったことは否定できない(P223)』

 つまり、個人としての意見は宗教や思想を基盤にして当然かまわないが、そこには責任や根拠が備わった上での発言でなければ、その言葉は「空気」と同じ無責任なものであり、あいづち程度でしかないということだ。自分の頭で考え、「心的態度の追求をうやむや」にしない。すなわち、他者の批判に向き合い、論理的かつ正当な反論を自分の言葉で、責任をもって述べることが必要なのではないか。

 Jくんの話をしよう。Jくんの<信仰>の動機は高校受験であると言っていた(サッカーでレギュラーを獲ることも言っていたがこの話は省く)。つまり、高校受験に合格するという目に見える形(物質化)での見返り(成功・勝利)の為の<信仰>である。そして、見事受験に合格したJくんは「この信心は本当にすごい」と悟るのである。

 しかし、先ほど言ったように、これは資本主義国家では「努力すれば報われる」と同義である。かんたんな例を挙げると、もし仮に私が「幸福の科学」を信仰し、高校入試に挑み、みごと合格したとすれば、「幸福の科学は本当にすごい」と信じて、それをみなに広めてもかまわないということになってしまう。Jくんの論理で行けばそういうことになってしまう。しかし、それは直接的な原因だと証明できないはずで、実際は「勉強の成果が実った」と考えるのが妥当であろう。したがって、Jくんの<信仰>心は、個人の努力の結果の賜物なのであり、創価学会の力とは無関係ということになる。それでも「創価学会」を信じるというのであれば、それは論理的に正しいとはいえず、ただ「そう思う」と言っているだけか、あくまで「おまじない」程度の効果である。もちろん、こう言うと、題目をあげることで勉強に集中できる、とか、甘えがなくなり努力を発揮できる、という反論はむろんあるだろう。しかし、Jくんが信仰を始めたときは、まだ信じていない。なのに、受験に合格した。これはつまり、Jくんの高校受験合格への切羽詰った想いや意気込みが勉強へと向かわせたのであり、信仰はその後に付いてきた理由付けでしかないことになる。夢や理想や目標に挑むとき、ひとは無根拠に自分を信じるほかない。それと信仰を同一視しているだけでしかないわけだから、とうぜんその信仰は無根拠なものでよいことになる。このようにJくんの主張では創価学会の素晴らしさを残念ながら証明できていない。
 批判したいのは2つ。1つは、自分の欲望(夢や目標や理想)を物質的な見返りを期待して<信仰>する宗教であること。2つめは、そのような宗教を他人の考えを尊重せず一方的に推し進めてくること。

 根源的な宗教性を必要としない人たちは創価学会を信じる=無根拠に自分を信じることができるので、自己啓発として利用しているとも言える。自己啓発とはつまり、(メンタル)ヘルスケアである。資本主義(とりわけ先進国)ではヘルスケア・ビジネスは価値を持ち、お金になる。

 美術評論家である椹木野衣は3.11後の鼎談でこのように述べている。
 『日本のように地面そのものが物理的に揺らいでしまう場所では、西洋で「構築的」と総称されるような体系、つまり建築を比喩として成り立ってきたような文化や哲学は、少なくとも西洋と同じようには存立しえないのではないか』
 この椹木野衣の問題提起をふまえれば、ヨーロッパのように基盤に哲学(宗教)が根付かない日本では、代替として流行によって変化するヘルスヘアのようなものが必然的に求められるのかもしれない。流動性のある占いやお笑い、アイドルやスピリチュアルなどが、さまざまな分野でニーズがあるのも納得がいく。そして、その一つの需要を創価学会のような「新興宗教」が担っているのはまちがいないだろう。

 個人的体験としてヘルスケアは重要である。「元気がでた」、「癒された」、「気分が楽になった」などは、ヘルスケアの効力であり、個人的体験であるのだが、何度も自分が違和感を持ち抵抗するのは、宗教は「祈ったから夢が叶った」、「祈ったから病気が治った」などと個人的体験を客観的事実にすり返えてしまうからに他ならない。

  物理学者である菊池誠は、「ニセ科学とつきあうために」という文章の中でこう述べている。
 『たとえば、宝くじの一等なんて、まず当たりっこないですが、でも必ず誰かには当たります。その人はもしかしたら、宝くじを買う前にどこかの神社でお守りを買っていたかもしれません。たぶん、その人は「ご利益」だと思うでしょうね。もちろん、それはただの偶然です。』

 『健康食品のたぐいには「体験談商法」というものがあります。「これこれを食べたら、こんな病気が治りました」という体験談を集めた本を売ったり、インターネットで体験談を紹介したりして、効果を信じ込ませるのです。体験談自体はもしかすると事実なのかもしれません。でも、それだけではなんの証拠にもなりません。たまたまかもしれないし、別の理由があるかもしれないからです。「体験談商法」のほとんどすべては「たまたま」と思っておいたほうが安全でしょうね(体験談そのものが捏造という場合もあります)。では、たまたまではないことをどうやって確認するのか。病気の原因を調べる疫学の考え方が役に立ちます。』

 疫学の考え方を菊池は図で表しているので、ここでは文字にして説明することにする。菊池がここで主張していることは、4つのパターンの統計で比較すれば嘘か本当かわかるということです。

 A:祈った→効果あり
 B:祈った→効果なし
 C:祈らない→効果あり
 D:祈らない→効果なし

 この4パターンを使います。

 そして、体験談とは、「A」のみ。つまり、「祈って効果があった」という個人的体験談だけである。ここで菊池が指摘しているのは、「A」、「B」、「C」、「D」、すべてを調べて統計を出せば真偽がわかっちゃうよね、という身も蓋もない正論である。
 このような話から、学会の学生部による「夢の達成」のスピーチを思い浮かべることができるのではないだろうか。これは紛れもなく個人的体験でしかない。そして、上の項目で言えば、「A」です。       
 このように学会では「体験談商法」と同じく成功体験談が頻繁に発表され、それを聴衆する仕組みとなっている。つまり、「A」のみを強調します。個人の成功体験を宗教の力にスライドさせ、祈れば叶うと思い込ませます。
 もう何が言いたいのかはもうお判り頂けると思うが、

 A:創価学会信者→夢が叶った
 B:創価学会信者→夢が叶わなかった
 C:一般人→夢が叶った
 D:一般人→夢が叶わなかった

 この4つのデータから統計を採って数値化して公表すれば、創価学会が唯一無二の宗教であることが簡単に証明できてしまうのだ。その結果、圧倒的にAの数値が高ければ、私は今すぐに入信して、生涯お題目を上げ続けるだろう。現代では科学的に証明できるはずのない、「何妙法蓮華教」の宇宙のリズムを盲目的に信じるだろう。しかし、これほど簡単なデータの公表だけで真偽を証明できるのに、証明させたい側が統計を採らないということは、逆説的に見れば、すでに答えが導き出されているのではないだろか。

 もう一度確認しておくが、個人的体験そのものは決して否定できない。個人が叶ったと思えば叶ったのだろう。その事実に他人は口出し出来ない。問題なのは、個人的体験(自己努力の結果である成功、勝利)をあたかも客観的事実(お題目の効果による成功、勝利)であるかのように脚色することに対しての断固たる抵抗である。
 誤解がないように願うが、ヘルスケア・レベルでの需要を新興宗教が一部担っており、それは資本主義(虚構)では必要なものであると考えている。つまり、私の主張はこうである。
 資本主義(虚構)に根ざした(と思っている根無し草の)創価学会は、そもそも宗教としての役割ではなく、バラエティ番組や占いなどとが担うようなヘルスケアとしての役割と、地域コミュニティー崩壊後(大きな物語の凋落)の代替としての「繋がり」の再活性化という役割をおもに果たしてきたといえるのだと思う。こう言うと、「バラエティ番組や占いと一緒にするな」と怒るかもしれないが、誤解しないでほしい。
 ここでまた牧口の「価値論」を引いてみることにしよう。

 『我々社会に通用している価値と云う語が何を意味するのかを最も公正に見きわめて、その本質を補足しなければならない。此の語の最も早くから用いられたのは経済的な意味においてであろう。価値即ち「値(ね)うち」のあるということは、欲望充足の対象とするに足るということである。(P.85)』

 経済的な値打ち、すなわちお金儲けに繋がれば、それは一定の価値があるということを牧口は述べている。とうぜんバラエティ番組は視聴率の見込める大きなジャンルだし、あらゆる場所で、占いや運勢診断の記事などを目にすることができるだろう。このように「値打ち」があるということは、牧口の「価値論」を基盤とした創価学会の掲げる<価値創造>と同等の意味において、素晴らしいものなのである。よって、創価学会への勧誘や<折伏>でアイドルや芸能人の名を自信たっぷりに口にするのではないか。

 このような細かい指摘を続けると「そんなに小難しく考える必要ない」、「そんな考えだと損するだけ」という嘲笑的な批判もあるだろう。おそらく資本主義でのその指摘は正しい。Jくんも「自分の為だけに祈ればいい」と言うように、言い換えれば、「世界平和なる抽象論を独善的に妄信し、たんなる私利私欲を自己欺瞞的に正当化する宗教」は、多くの人に都合が良いだろう。だが、自分の成功のためだけに<信仰>し、物質的な見返りを得るための宗教がはたして宗教足りえるのだろうか? もちろん経済的に自立できない者が他人を幸せにすることはできない、という反論は至極正論ではあるのだが、みながそうなるべきだという主張になると、全体主義的な単一的な思想を作り出す危険性があり同意できない。ひとつ正当化できるとすれば、それは資本主義を<信仰>しているという潔い居直りである。つまり、私のように、「市場原理主義」を信じていると言うことである。