8. 創価・仏教との死生観の違いとその表明

 創価学会日蓮正宗から波紋されているが、日蓮正宗の、また、法華経の、仏教の、死生観を踏襲している。つまり、「生まれ変わりの法則」を信じる死生観である。これ事態はとくに変わった考え方ではないだろう。細かいところはいろいろ違いもあるのだろうが、そもそも私は生まれ変わるという考えがないので、明らかに死生観が異なる。よって、創価学会の思想に最初から馴染めないのは当然のことでもあった。
 なにもただ批判することが目的なわけではない(そんなことでいちいちこんなに長い文章を書くわけがない)。死生観は根源的な個人の考え方や生き方に直結する。つまり、私が私であることの意味そのものなのである。

 さて、ここで簡単に死生観を述べるとすれば、死ねば実質それまでである、ということだろう。生まれ変わることはない。しかし、たとえば血縁関係によって、DNAレベルで生きるという考えかたはあるだろう。もっと言えば、身体レベルでの土葬などは食物連鎖のそれに当たるので、命が循環しているかのようにも感じられなくもないが、衛生面上良くないので一般的ではない。
 また精神レベルでいえば、「記憶として生きる」という考えもあるだろう。記憶に残ることは無意識レベルも含むので、出合った人、一度だけしか話したことがない人、視界に入っただけの人、声だけしか聞いたことのない人、テレビで見ただけの人、なども含まれる。それら他者の微々たる(無意識レベルでの)一部となるだけでも、精神(の一部)は生きていると考えることは可能なのかもしれない。その人の記憶の一部として、また、その人が別の誰かの記憶の一部になっていくことにも、やはり、自分の精神の一部は含まれている、という考えはできるだろう。しかし、枝分かれしていくほど、ほとんど「ない」に等しくなる。どこかで完全に人類が滅亡すれば、精神としても途絶えるかもしれない。芸術作品など物を創作する行為は、おそらくこういった精神レベルで生き残るという考えが顕れているのかもしれない。ただ原子レベルにまで展開すれば、「輪廻転生」の巡るという概念はわからないではない。

 再び生まれ変わることはない、という思想ではニヒリズム虚無主義)へ行き着くのではないかと嘆く人もいるが、それはニヒリズムでも「受動的(弱さの)ニヒリズム」とよばれるものにあたるだろう。それは何も信じることができず絶望したまま惰性で生きることを指す。
 しかし、ニヒリズムにはもう一つ「能動的(強さの)ニヒリズム」という態度がある。意味は、すべてが無意味で無価値で虚構でしかない現実を受け止めつつ肯定し、自ら仮象を実践的に作り出し、懸命にその瞬間を生きる態度のことを指す。
 ニーチェはこの後者のニヒリズムを肯定し、それを「超人」と読んだ。
 多くの人にこの態度を望むのは無理があるだろうが、個人的な思想としては、とても共感できる部分があり、このような考えが私の「生」の価値観に近いといえるだろう。

 もちろん生まれ変わるという考えかた自体は、人々の生きる動機づけとしてとても有効だとは思う。死をおそろしく怖いものと位置づけることによって、現世を真っ当に生きればまた来世も幸せに生まれてくると諭すことで社会の秩序は保たれているという考え方もあるだろう。しかし、宇宙について知れば知るほど、その思想だけでは無理があることに気が付くのだと思う。
 つまり、宇宙について人間はほとんど何も知らないということを知る。誕生の意味などわからない。素粒子もまた生きて(存在して)いるという立場に立てば、人間の生まれ変わりの根源は、単細胞から原子レベルにまで遡れることになる。
 ならば、ビック・バンと同時に爆発的に増殖し続けている物質に、はたしてなんの因果があるというのだろう。あるとすればただ「増殖する」ことだけでしかないように思う。宇宙の素粒子レベルと人間生命が繋がっていると多くの宗教が説くし、実際に間違っていないように感じる。しかし、そうであればあるほど固体としての生死に固執する意味がわからなくなる。つまり、繋がっていると思えば思うほど無に等しいことを実感せざるを得ないのではないかと思う。

 率直な反論として、人間が誕生してから意味が生まれたのだ、という指摘もあるだろう。確かに大脳新皮質ができてから人は理性や論理を生み出したので、そういう意味では人間にだけ生まれる意味が与えられたとも言える。

 ざっと大まかに述べたこのような死生観の立場の下で、創価学会脱会が罰かどうかは置いておき、私が早死にする場合ももちろん想定されるだろう。そのころ自らの家族を持っていなければ、遺族として親兄弟に葬式などの手続きを課してしまうことになるだろう。
 よって、そうなったときにできるだけ迷惑がかからないように、また死後に創価学会的な葬式が行われないように、この一連の文章の中に「遺言」も導入しておくことにしよう。


【遺言書】 

一、私の身体の一部である臓器は、脳死と診断されたうえで提供することとする。詳細は、臓器提供意思表示の記載に準ずること。

二、私の葬式は親兄弟の同席を基本的に望むが、それ以外のものの参列は無理のない範囲でかまわないので、気軽な出席・欠席でよいと伝えてほしい。たとえばインターネットや携帯電話での一時参加なども好ましい。

三、私は創価学会形式の葬式は望まず、それ以外の一般的な葬式を希望する。

四、葬式費用は私の資産の範囲内で納まる質素なものを希望するが、葬式費用で納まらない場合は火葬だけを望み、それでも費用が足りない場合は親兄弟で工面して頂きたい。

五、火葬後の私の遺骨は場所の指定はないが、何処か周りの迷惑にならない場所へ「散骨」すること。つまり、固定の場所に埋めることを禁ずる。

六、よって、私の遺骨はどこかの墓に入ることはしない。ゆえに、お墓参りの必要もない。

七、私の葬式、火葬、または散骨に集まった時の参列者全員の入った写真を一枚、または動画を数分撮り、そのデータないし現像物を、参列者および欠席者、親族などに渡し、これを墓参り的なものの代替として使用可能であることとする。

以上、七項目を私の遺言とする。  ※※※※