7.「対話」とは何か

 対話とはなにか。それは<折伏>のように、あいての意見を認めず、一方的な主張を通すことを意味するのだろうか。たとえば、西洋では、哲学者ヘーゲルの「弁証法」が議論や話し合いの基盤としてある。「ヘーゲル弁証法」とは、命題(主題)「A案」に対して反論(アンチテーゼ)「B案」を立て、双方の主張を尊重し、「A´案」を導き出す。この解を「ヘーゲル弁証法」では止揚アウフヘーベン)という。このように、導き出された「A´案」は、最初の「A案」の矛盾点や反対意見である「B案」を織り込んでいるので、最初の「A案」に比べ、「A´案」はより強固な形となっている。
 このように、ヘーゲルの「弁証法」は異なる意見を持ち寄って議論し、意見を統合させることにより、新たな解決策が生まれてくる。この弁証法は社会の発展にはもちろん、自然界でも作用しており、他にも広く応用できると唱えるようになった。
 それに比べ<折伏>は、異なる意見を認めないばかりか、古くからの主張を改新しないので、とうぜん発展もしない。<折伏>=「対話」であるなら、創価学会の「対話」は常用語としての意味を持たない言葉である。もし、学会員が「対話」を常用語の意味として捉えているのであれば、根本的思想である<折伏>や<広宣流布>は薄っぺらな意味しか持たないことになる。

 議論を発展させていくことが社会の発展に繋がるという思想のもとで、「ヘーゲル弁証法」は有効であると言えるだろう。それに比べ<折伏>は、議論を発展させることが目的ではなく、創価学会の主張のみが正しいとする「対話」なので、とうぜん結論ありきの意見しか出てこなく、発展性は皆無である。
 一方的な主張のみで、反論に耳を傾けないのであれば、それは到底「対話」とは呼べないであろう。学会では<折伏>と「対話」の相異などあるのだろうか。私にはイメージのすり替えにしかみえない。感覚的なイメージ操作で時代錯誤の<折伏>の意味を無効化させようとした言葉が「対話」であると私は考える。このすり替えは、マジックなどと同じで人を騙す行為であるので、きちんと「タネ証し」が必要である。では、「対話」とは何なのか。
 哲学者の柄谷行人は「探求Ⅰ」の中で「対話」をこのように位置づけている。

 『私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提することである。(P.11)』

 このように、「他者の他者性」を前提とすることを「対話」とよべるとすれば、創価学会の<折伏>にも少し深みがでるのかもしれない。創価学会のことを何も知らない人にどのように素晴らしさを伝えるか、これは柄谷の文章にしたがえば、言語ゲームを共有しない(創価学会がどんな宗教なのか知らない)者との「対話」となるので<折伏>は成立するといえそうだ。
 しかし他方で、柄谷は「対話」を「語る―聞く」関係ではなく、「教える―学ぶ」関係に当てはめる。 言葉の通じない異国人との会話や、こどもや精神病者との対話は、共通前提がない。このような状態が「他者の他者性」である。そして、そのような関係で「対話」を成立させるには、教える側の「命がけの飛躍」が必要であると柄谷はいう。

 柄谷の定義にしたがって、創価学会への<折伏>を「対話」とよぶのであれば、私のような学ぶ側に対して、いかにして教えることができるのか、理解してもらえるかを考えなければならない。つまり、私の疑問や批判に耳を傾け、その質問に丁寧に答えなければならない。他者からの創価学会への質問や批判は、「真理とは何か」に対する学びでもあるわけで、教える側はそれに真摯に対応しなければ、<折伏>する資格などないと言える。柄谷のいう「教える―学ぶ」関係=「対話」はそのような非対称な関係性のことを指す。ゆえに、私の批判を前に<折伏>の立場に立つのであれば、まちがっても怒ってはならないのだ。

 また柄谷はその「教える―学ぶ」の関係性は、マルクスの説く、「買う側―売る側」の立場に当てはめられると説く。「教える―学ぶ」関係は非対称であり、「買う側―売る側」と同じ構造だと指摘する。それは<折伏>のように上から目線で他者を否定して、押し売りセールスのように法律のグレーゾーンで売買(入信)を成立させることを意味しない。柄谷のいう「対話」は、売る側/教える側が下の立場に立ち、購入の価値、勉強の価値を説かねがばならず、その成功には「命がけの飛躍」が必要なのだと柄谷は述べている。
 <折伏>に「対話」の可能性が残されているとすれば、それは謙虚な姿勢での命がけの<価値創造>であるのだろうが、では創価学会にどのような価値があるのかが問題となるのだが、その話は最後に記すことにする。
  
 ここでもう一度、柄谷行人の「探求Ⅰ」から引用しよう。
 『「教える」立場ということによってわれわれが示唆する態度変更は、簡単にいえば、共通の言語ゲーム(共同体)のなかから出発するのではなく、それを前提しえないような、場所に立つことである。そこでは、われわれは他者に出会う。他者は、私と同質ではなく、したがってまた私と敵対するもう一つの自己意識などではない。(P.17)』

 これは4章で私が述べた、「他者を理解できないことを前提とすることから始める行為」に他ならない。他者の視界が遮られた家庭内の問題に他人がとやかく言えないように、当事者間の問題に安易な同調や理解はむしろ“こころ”の溝を広げることになりかねない。たとえば、家庭内暴力(DV)の痕や、自傷行為などは、衣服を覆うことで容易に隠せてしまう。同じように、精神的な暴力も“こころ”を傷つける行為であるが、他者がその痛みを知ることは容易ではない。このように、私たちは目に見えないもの(他者の内面)にあまりに鈍感であるため、それを知るためには直接的な表現が必要になる。
 では、その直接的な声を私たちはどのようにして聞くことができるだろうか。そのようなまなざしが、「他者の他者性」の態度であり、「他者を理解できないことを前提とすることから始める行為」である。このような前提から、“こころ”の溝を埋めていくほかに柄谷のいう「対話」は成立しない。それは対等な立場から互いの溝を埋めていく行為を意味するのではなく、「教える―学ぶ」関係のように、非対称的に、教える側に立つ態度表明を意味する。私のこの文章はいわば、その「命がけの飛躍」の実践でもあると言える。