6.カルトとしての創価、洗脳の大罪

 フランスなどヨーロッパ数カ国では創価学会がカルト(セクト)団体に指定されている。

 カルト団体と認定したフランス側が問題視しているのは、創価学会が信者たちみずからの子供に対しても同じ<信仰>を持つように仕向けている点が子供の自由(人権)を奪っているということである。家族単位、世帯単位での布教を改めない限り、セクト団体として監視される対象であり続けるという主張だそうだ。さすが、人民によって「政教分離」を勝ち取った国(フランス革命)のごもっともな指摘であり、理念であると思う。

 そういえば私も以前、「親が自分の宗教を子供に押し付けるのは虐待でしかない」と聞いたことがあり、それを思い出した。いくら自分の子供だとしても生まれ出たら、その時点で一個人としての自由があるのであり、親が思想のあれこれを規定し、押し付けるのは基本的人権に反する行為であると言えるだろう。親は子供をできる限り自由に育てることが望ましく、それは人間を尊重するという意味において普遍的な思想だと言えるだろう。
 誤解ないようにいうが、それは放任主義を意味しない。放任主義とはつまるところ、親の責任逃れでしかない無責任な態度である。仮に放任主義が成り立つのであれば、それはいざという時に介入できるように、常に「まなざし」だけは向けながら、安全の範囲内で管理・監視することを意味するはずだ。
 もちろん一定期間の道徳感などの教育は必要だろうが、それが単一的であると教育上、かたよりがでて良くないのではないか。親の価値観はどうしたって子供に投影されるだろうが、子供(一個人)が親と違った価値観を持ったとしても問題はないはずだ。
 つまり、ここでも他人に対する態度の問題が浮かび上がるのではないか。一方的に自分の主張を押し付ける=創価学会。多様な価値観を認める=人権を尊重。と、また最初の問題提起へと戻ることになるだけである。 

 他人への無理解から来る「信仰の強要」や「脱会阻止のための脅し」を受けた上での反論だというのを前提にして言わせてもらうが、中途半端なマインドコントロールは、子供を混乱させ、そのマインドコントロールが解けたときには、それまでの感情が「怒り」へ転化するだろう。また、半端な洗脳はそれが解けるまでの日々を苦悩の日々として送ることになるだろう。 洗脳は解けるまで、それが洗脳だと気づかない。しかし、一度解ければ、それまでの過去は、虐待の記憶へと塗り換わるだろう。中途半端な洗脳の失敗は悲劇であると言えよう。塗り換わってしまった幼少期の思い出は色褪せたままであろう。弱い者(子供や障害者)にも自由が与えられてこそ民主主義である。自由とは開かれた多様性である。
 インドの教えをひとつ。日本では「世間に迷惑をかけてはダメ」だと子供に教えるが、インドでは、「そもそも人は生きている以上迷惑をかけてしまう存在なので、他人には寛容になろうね」と教えるという。「単一的な無理解」から「多角的な尊重」へ、私の提言もこれと同じであるが、創価学会の思想とは真逆なので、私はずっと苦しんでいる(笑)。

 さて、もう一度「洗脳」の話へ戻そう。
 ファシズム北朝鮮の独裁も大日本帝国天皇崇拝も、いってみれば国家の戦略的な過度なパターナリスティック(家父長制度的)な教育(教化・洗脳)に紐づいている。
 中国や韓国の歴史教育もいわば「洗脳」であり、日本のあったことやなかったこと(南京大虐殺竹島尖閣問題)が過度に歪曲して教えこまれているのであり、中国や韓国の人民が反日感情を抱くのも教化=洗脳されているため当然である(しかし、すべてが嘘で日本の主張がすべて正しいとも思っていない)。問題なのは「正しい教育」なのだが、創価学会も同様に、中国や韓国も自国/学会の利益のために自分に有利な曲解をしてしまう。
 その上で大事なのが何度も反復して述べている「多様性の容認」なのは、もはや自明であろう。

 北朝鮮では国外の情報を国民が知れないように国が管理している。中国でもインターネットの閲覧が国により規定させている。そのような状況下では自国を批判する声はシャットアウトされ、自己正当化のみで物事が構築されていく。このように多様性が失われた社会で、ひとたびインターネットが解放されたり、世界中を旅する機会に恵まれたりすれば「多様な価値観」を知ることができ、そこに論理的に物事を考える能力がわずかでも備わっていたなら、自国の教育がいかに嘘で塗り固められた洗脳教育であったかがわかるだろう。少なくとも何か「おかしい」という疑問を持つだろう。そう思えるのは、私たちが北朝鮮の外側(客観的立場)にいるからだ。 大きなシステムの問題点で言えば「教育制度」の改革なのだろうが、個人レベルでの問題点でいえば「客観的な視点(メタ視点)」が必要になるのだと思う。
 つまり、自分の利害関係や立場から離れて、遠巻きに事態を眺めてみること。感情的にならない場所まで距離をとり、冷静に物事を把握して自分の頭で考えてみることでなかろうか。

 フランス革命の土台となった思想家ルソーの著書「社会契約論」ではそのような考え(一般意思という概念、いわば間主観的な想いの総体のようなもの)が展開されているが、詳しい内容はここでは省く。また、上記での梅原猛のいう、一切の利害関係から離れて意見する、という主張とも重なる考えである。
 もっとわかりやすく、子供にでもわかるように言うなら、「はだかのおおさま」の物語を思い出してほしい。あそこに描かれていることは、周りの空気や意見に左右されて、自分の考えや意見を無くしてしまうと「恥」をかくよってことです。
 思い込むことによって、つまり観念的になってしまって、自分の頭で考えることを止めてしまい、他人の意見・反論に耳をかさなくなって、ひとつのことだけを信じてしまうと、思い込みは激しくなっていきます。それがさらに酷くなると「洗脳」とよばれる状態になります。やがて行くところまで行けば、「恥」を「恥」と感じなくなってしまい、そうなると他人との会話はもう噛み合わず、専門家の治療が必要となるレベルにまでいってしまいます。
 「はだかで歩くことが恥ずかしくなくなる」のなら問題ないのですが、問題は「はだかなのに、はだかじゃない」と思い込んでしまう、その「思考回路」にあるのです。
 それをソクラテスは「無知の知」といいました。ソクラテスは自分が無知であるということを知っているから、なんでも知っていると思い込んでいるあなたよりも私は賢いという論法です。つまり「謙虚な姿勢」ということです。これが哲学(智)の古典(始まり)です。