7.「対話」とは何か

 対話とはなにか。それは<折伏>のように、あいての意見を認めず、一方的な主張を通すことを意味するのだろうか。たとえば、西洋では、哲学者ヘーゲルの「弁証法」が議論や話し合いの基盤としてある。「ヘーゲル弁証法」とは、命題(主題)「A案」に対して反論(アンチテーゼ)「B案」を立て、双方の主張を尊重し、「A´案」を導き出す。この解を「ヘーゲル弁証法」では止揚アウフヘーベン)という。このように、導き出された「A´案」は、最初の「A案」の矛盾点や反対意見である「B案」を織り込んでいるので、最初の「A案」に比べ、「A´案」はより強固な形となっている。
 このように、ヘーゲルの「弁証法」は異なる意見を持ち寄って議論し、意見を統合させることにより、新たな解決策が生まれてくる。この弁証法は社会の発展にはもちろん、自然界でも作用しており、他にも広く応用できると唱えるようになった。
 それに比べ<折伏>は、異なる意見を認めないばかりか、古くからの主張を改新しないので、とうぜん発展もしない。<折伏>=「対話」であるなら、創価学会の「対話」は常用語としての意味を持たない言葉である。もし、学会員が「対話」を常用語の意味として捉えているのであれば、根本的思想である<折伏>や<広宣流布>は薄っぺらな意味しか持たないことになる。

 議論を発展させていくことが社会の発展に繋がるという思想のもとで、「ヘーゲル弁証法」は有効であると言えるだろう。それに比べ<折伏>は、議論を発展させることが目的ではなく、創価学会の主張のみが正しいとする「対話」なので、とうぜん結論ありきの意見しか出てこなく、発展性は皆無である。
 一方的な主張のみで、反論に耳を傾けないのであれば、それは到底「対話」とは呼べないであろう。学会では<折伏>と「対話」の相異などあるのだろうか。私にはイメージのすり替えにしかみえない。感覚的なイメージ操作で時代錯誤の<折伏>の意味を無効化させようとした言葉が「対話」であると私は考える。このすり替えは、マジックなどと同じで人を騙す行為であるので、きちんと「タネ証し」が必要である。では、「対話」とは何なのか。
 哲学者の柄谷行人は「探求Ⅰ」の中で「対話」をこのように位置づけている。

 『私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提することである。(P.11)』

 このように、「他者の他者性」を前提とすることを「対話」とよべるとすれば、創価学会の<折伏>にも少し深みがでるのかもしれない。創価学会のことを何も知らない人にどのように素晴らしさを伝えるか、これは柄谷の文章にしたがえば、言語ゲームを共有しない(創価学会がどんな宗教なのか知らない)者との「対話」となるので<折伏>は成立するといえそうだ。
 しかし他方で、柄谷は「対話」を「語る―聞く」関係ではなく、「教える―学ぶ」関係に当てはめる。 言葉の通じない異国人との会話や、こどもや精神病者との対話は、共通前提がない。このような状態が「他者の他者性」である。そして、そのような関係で「対話」を成立させるには、教える側の「命がけの飛躍」が必要であると柄谷はいう。

 柄谷の定義にしたがって、創価学会への<折伏>を「対話」とよぶのであれば、私のような学ぶ側に対して、いかにして教えることができるのか、理解してもらえるかを考えなければならない。つまり、私の疑問や批判に耳を傾け、その質問に丁寧に答えなければならない。他者からの創価学会への質問や批判は、「真理とは何か」に対する学びでもあるわけで、教える側はそれに真摯に対応しなければ、<折伏>する資格などないと言える。柄谷のいう「教える―学ぶ」関係=「対話」はそのような非対称な関係性のことを指す。ゆえに、私の批判を前に<折伏>の立場に立つのであれば、まちがっても怒ってはならないのだ。

 また柄谷はその「教える―学ぶ」の関係性は、マルクスの説く、「買う側―売る側」の立場に当てはめられると説く。「教える―学ぶ」関係は非対称であり、「買う側―売る側」と同じ構造だと指摘する。それは<折伏>のように上から目線で他者を否定して、押し売りセールスのように法律のグレーゾーンで売買(入信)を成立させることを意味しない。柄谷のいう「対話」は、売る側/教える側が下の立場に立ち、購入の価値、勉強の価値を説かねがばならず、その成功には「命がけの飛躍」が必要なのだと柄谷は述べている。
 <折伏>に「対話」の可能性が残されているとすれば、それは謙虚な姿勢での命がけの<価値創造>であるのだろうが、では創価学会にどのような価値があるのかが問題となるのだが、その話は最後に記すことにする。
  
 ここでもう一度、柄谷行人の「探求Ⅰ」から引用しよう。
 『「教える」立場ということによってわれわれが示唆する態度変更は、簡単にいえば、共通の言語ゲーム(共同体)のなかから出発するのではなく、それを前提しえないような、場所に立つことである。そこでは、われわれは他者に出会う。他者は、私と同質ではなく、したがってまた私と敵対するもう一つの自己意識などではない。(P.17)』

 これは4章で私が述べた、「他者を理解できないことを前提とすることから始める行為」に他ならない。他者の視界が遮られた家庭内の問題に他人がとやかく言えないように、当事者間の問題に安易な同調や理解はむしろ“こころ”の溝を広げることになりかねない。たとえば、家庭内暴力(DV)の痕や、自傷行為などは、衣服を覆うことで容易に隠せてしまう。同じように、精神的な暴力も“こころ”を傷つける行為であるが、他者がその痛みを知ることは容易ではない。このように、私たちは目に見えないもの(他者の内面)にあまりに鈍感であるため、それを知るためには直接的な表現が必要になる。
 では、その直接的な声を私たちはどのようにして聞くことができるだろうか。そのようなまなざしが、「他者の他者性」の態度であり、「他者を理解できないことを前提とすることから始める行為」である。このような前提から、“こころ”の溝を埋めていくほかに柄谷のいう「対話」は成立しない。それは対等な立場から互いの溝を埋めていく行為を意味するのではなく、「教える―学ぶ」関係のように、非対称的に、教える側に立つ態度表明を意味する。私のこの文章はいわば、その「命がけの飛躍」の実践でもあると言える。

8. 創価・仏教との死生観の違いとその表明

 創価学会日蓮正宗から波紋されているが、日蓮正宗の、また、法華経の、仏教の、死生観を踏襲している。つまり、「生まれ変わりの法則」を信じる死生観である。これ事態はとくに変わった考え方ではないだろう。細かいところはいろいろ違いもあるのだろうが、そもそも私は生まれ変わるという考えがないので、明らかに死生観が異なる。よって、創価学会の思想に最初から馴染めないのは当然のことでもあった。
 なにもただ批判することが目的なわけではない(そんなことでいちいちこんなに長い文章を書くわけがない)。死生観は根源的な個人の考え方や生き方に直結する。つまり、私が私であることの意味そのものなのである。

 さて、ここで簡単に死生観を述べるとすれば、死ねば実質それまでである、ということだろう。生まれ変わることはない。しかし、たとえば血縁関係によって、DNAレベルで生きるという考えかたはあるだろう。もっと言えば、身体レベルでの土葬などは食物連鎖のそれに当たるので、命が循環しているかのようにも感じられなくもないが、衛生面上良くないので一般的ではない。
 また精神レベルでいえば、「記憶として生きる」という考えもあるだろう。記憶に残ることは無意識レベルも含むので、出合った人、一度だけしか話したことがない人、視界に入っただけの人、声だけしか聞いたことのない人、テレビで見ただけの人、なども含まれる。それら他者の微々たる(無意識レベルでの)一部となるだけでも、精神(の一部)は生きていると考えることは可能なのかもしれない。その人の記憶の一部として、また、その人が別の誰かの記憶の一部になっていくことにも、やはり、自分の精神の一部は含まれている、という考えはできるだろう。しかし、枝分かれしていくほど、ほとんど「ない」に等しくなる。どこかで完全に人類が滅亡すれば、精神としても途絶えるかもしれない。芸術作品など物を創作する行為は、おそらくこういった精神レベルで生き残るという考えが顕れているのかもしれない。ただ原子レベルにまで展開すれば、「輪廻転生」の巡るという概念はわからないではない。

 再び生まれ変わることはない、という思想ではニヒリズム虚無主義)へ行き着くのではないかと嘆く人もいるが、それはニヒリズムでも「受動的(弱さの)ニヒリズム」とよばれるものにあたるだろう。それは何も信じることができず絶望したまま惰性で生きることを指す。
 しかし、ニヒリズムにはもう一つ「能動的(強さの)ニヒリズム」という態度がある。意味は、すべてが無意味で無価値で虚構でしかない現実を受け止めつつ肯定し、自ら仮象を実践的に作り出し、懸命にその瞬間を生きる態度のことを指す。
 ニーチェはこの後者のニヒリズムを肯定し、それを「超人」と読んだ。
 多くの人にこの態度を望むのは無理があるだろうが、個人的な思想としては、とても共感できる部分があり、このような考えが私の「生」の価値観に近いといえるだろう。

 もちろん生まれ変わるという考えかた自体は、人々の生きる動機づけとしてとても有効だとは思う。死をおそろしく怖いものと位置づけることによって、現世を真っ当に生きればまた来世も幸せに生まれてくると諭すことで社会の秩序は保たれているという考え方もあるだろう。しかし、宇宙について知れば知るほど、その思想だけでは無理があることに気が付くのだと思う。
 つまり、宇宙について人間はほとんど何も知らないということを知る。誕生の意味などわからない。素粒子もまた生きて(存在して)いるという立場に立てば、人間の生まれ変わりの根源は、単細胞から原子レベルにまで遡れることになる。
 ならば、ビック・バンと同時に爆発的に増殖し続けている物質に、はたしてなんの因果があるというのだろう。あるとすればただ「増殖する」ことだけでしかないように思う。宇宙の素粒子レベルと人間生命が繋がっていると多くの宗教が説くし、実際に間違っていないように感じる。しかし、そうであればあるほど固体としての生死に固執する意味がわからなくなる。つまり、繋がっていると思えば思うほど無に等しいことを実感せざるを得ないのではないかと思う。

 率直な反論として、人間が誕生してから意味が生まれたのだ、という指摘もあるだろう。確かに大脳新皮質ができてから人は理性や論理を生み出したので、そういう意味では人間にだけ生まれる意味が与えられたとも言える。

 ざっと大まかに述べたこのような死生観の立場の下で、創価学会脱会が罰かどうかは置いておき、私が早死にする場合ももちろん想定されるだろう。そのころ自らの家族を持っていなければ、遺族として親兄弟に葬式などの手続きを課してしまうことになるだろう。
 よって、そうなったときにできるだけ迷惑がかからないように、また死後に創価学会的な葬式が行われないように、この一連の文章の中に「遺言」も導入しておくことにしよう。


【遺言書】 

一、私の身体の一部である臓器は、脳死と診断されたうえで提供することとする。詳細は、臓器提供意思表示の記載に準ずること。

二、私の葬式は親兄弟の同席を基本的に望むが、それ以外のものの参列は無理のない範囲でかまわないので、気軽な出席・欠席でよいと伝えてほしい。たとえばインターネットや携帯電話での一時参加なども好ましい。

三、私は創価学会形式の葬式は望まず、それ以外の一般的な葬式を希望する。

四、葬式費用は私の資産の範囲内で納まる質素なものを希望するが、葬式費用で納まらない場合は火葬だけを望み、それでも費用が足りない場合は親兄弟で工面して頂きたい。

五、火葬後の私の遺骨は場所の指定はないが、何処か周りの迷惑にならない場所へ「散骨」すること。つまり、固定の場所に埋めることを禁ずる。

六、よって、私の遺骨はどこかの墓に入ることはしない。ゆえに、お墓参りの必要もない。

七、私の葬式、火葬、または散骨に集まった時の参列者全員の入った写真を一枚、または動画を数分撮り、そのデータないし現像物を、参列者および欠席者、親族などに渡し、これを墓参り的なものの代替として使用可能であることとする。

以上、七項目を私の遺言とする。  ※※※※

9.終わりのまえに

 この創価学会批判により、何か災いが起こると実父から断言され、ショックと共に噴飯ものでもあるので、もう少しここで反論しておくことにする。もし仮に災いだろうが天罰だろうが、不幸が訪れて死んだとしても、池田大作の息子の次男が29歳という若さで死んでしまっているという事実は覆されない。
 その上で、もし自分が仮に親より先に死んだからといって、それがいったい何の意味を持つというのだろうか。それは解釈の仕方でどのようにでもとれてしまうだろう。そういった否定的な嫌がらせレベルの信憑性のない予言めいた冗談にしてはいささか度が過ぎる発言は、身勝手なレッテル張りであり、色眼鏡の何ものでもなく、偏見の塊でしかなく、誰も幸せにしない清々しいほど無責任で、残虐すぎるあまり痛快な暴力発言でしかない。 

 脱会者に心無い野次を飛ばすより、自らの<折伏>の脆弱さを反省すべきだろう。全盲の親がいる子供はおそらく不幸であろう。その上で宗教は必要である。救いとはそのような人に与えられるべきだ。しかし、村八分にあった過去や自らの脆弱さからくるルサンチマンを感情のはけ口としているにもかかわらず、どこから湧いてくるのか選民意識でルサンチマンを隠蔽しようとする心もとない父権(独裁主義)的なずさんな粉飾劇は、私には凝視することがとてもできない。
 その自らの<信仰>心に罰があたらないことが、すでにこの宗教の信憑性のなさを自ら体現し、証明しているといえよう。自らのその矛盾の数々を散らかしたまま片付けようとしなかった行為は、私の洗脳を解いた原因でもあるので、その点においては素直に感謝したい。
 そしてまた、勝利・成功の宗教を<信仰>するわれわれ血族および親族は、私の知るかぎりにおいて残念ながら誰一人、勝利・成功してはいないという悲しい現実がある。「すでに成功している、勝利だ」という反論には、「それだったら創価学会以外の人たちも立派に成功・勝利している」と返せば済む。
 牧口がマルクスをトレースしたように、池田は私利私欲を<価値創造>と抽象化し、高度成長を前提にしたイリュージョン的宗教感を推し進めた。しかし、それはいまでは通用しないだろう。
 それは政治にも当てはまり、私たちの日本の問題は、右肩上がりの成長を前提とした上でつくられた制度の変更の着手に迫られているのだ。年金制度が持続不可能な制度であることがその好例である。
 創価学会もまた同様に、右肩上がりの幸福を扇情する<信仰>からの転換に迫られているのではないか。ヘルスケアとしての役割ならほかにいくらでも自分にあったものを見つけられるはずだ。私たちの社会はこれからより透明性を重視し、「多様な価値観」を認めるグローバルな視点を持つことになるだろう。日本の高齢化・人口減少は大胆に移民を受け入れることでしか解決策がないと多くの人が指摘する。そのような多民族社会で<折伏>を迫れば、とうぜんイスラムヒンドゥーやローマカトリックなどの信仰者を避けられなくなる。そのようなときに「他者を認める態度」、つまり尊重があるのであれば、<折伏>などできはしないだろう。創価学会こそが唯一無二の信仰であり、他宗教は邪教であるといってしまえる選民主義的な神経では、これからの世界で通用しない。
 
 これまでの発言が創価学会信者の心を傷つけてしまったなら申し訳ない。でもこれは最初に述べた「言論の自由」であり、私は自らの主張に一貫性があり、きわめて論理的なことしか言っていないと自負しているので、単純な創価批判だと思われることもないという想いの下で書いている。
 しかし一部の創価学会信者は、この文章を書いたことで罰が当たるというかもしれない。現に脱会の動機も聞こうともせずに、一方的に罰があたると他者に向かって述べてしまえるほどだから、ある一定数はそういう人もいるのだろう。
 そういう人がいることを踏まえて、池田大作の発言を引用してこの章を終えることとしたい。 

 「御本尊さまに題目を唱えるならば、いっさいの罪は消えていきます」(ソースhttp://www.youtube.com/watch?v=yF_C9a37B3Y 0:56秒〜)

 このように池田大作自らの口で救済があると仰せられております。
 どんなことをしたとしても、仮にもし私に罪があったとしても、ひとたび題目し、祈ればすべての罪は消えてしまうのであります。素晴らしい宗教じゃないか。いまここで祈ってみよう。
 すべての罰はいま消えました。

10.創価学会の中心思想である「価値論」崩壊の証明

 東日本大震災によって引き起こされた津波被害を目の前に、宗教の無力さを、人間ひとりの非力さを突きつけられた。また、震災と人災によって併発された原発事故により、文明の危機が露呈した。安全・安心の刷り込みによって、私たちは原発を妄信してきた。それは学会員にとっては、創価学会を妄信してきたことと同じ意味である。原発事故という文明災は、近代社会の問題であり、資本主義の問題点を炙り出したといえる。池田大作創価学会公明党原子力に沈黙した。本質的な話にしか興味がわかなくなっていた私は何のためらいもなく創価学会というゲームから離脱した。

 どうして、創価学会原子力の問題に沈黙したのだろうか?

 その答えを私は知ってしまった。私が自分の頭で考え続けてきた論理的な道筋がけっして間違っていないことが証明されてしまった。牧口みずからが著書に記してしまっているのだ。「価値論」ではカントの「真・善・美」の普遍的思想を強引に「利・善・美」と読み替えたことで成立している(ここに批判するなら、牧口は認識することにだけ価値があると言っている。つまり意識に上らないものは無価値であると述べているのだが、フロイトのいう無意識の欲望(エス)などであっさりと反論できてしまうだろう)。
 牧口が「真」を「利」に読み替えた理由は、たんにマルクス主義に触発されてそれをそっくりそのまま使って新興宗教をでっち上げるためだったのだと思う。
 つまり、キリスト信仰者であるカントの「真・善・美」を基盤に用いていながら、キリスト批判を行い、「真」の部分をマルクスの「利」と入れ替え、マルクスの「価値体系」を勝手に宗教に当て嵌めている。その宗教の根幹は、日蓮正宗に依拠しているのに、日蓮正宗からは波紋されている。そもそも仏教はインドから中国を渡ってやってきた輸入物であり、そこから派生し、乱立した新興宗教のひとつにすぎない。これらを踏まえたうえで結論へ向かおう。
 どうして、創価学会原子力の問題に沈黙したのだろうか? 「価値論」にはこうある。

 『科学が純粋の真理を求めつつ、しかも討究して得られた定理が人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も純粋なる生命哲理を最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。譬えば、原子核の分裂と云う事は今の科学に於いては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。
同様にこの最高無上の定理は定理として止まることなく、各人の幸福・社会の幸福を築かんがために、御本尊として行動化されている。即ちこの御本尊を信じ、この本尊に向かって南無する時に、各人の希望は叶えられ旺盛なる生命力は培われてここに平和な社会が建設されるのである。(P.145)』

 この文章を読んで何か補足することがあるだろうか? 牧口は原子力の発展を全面的に素晴らしいと感じたようだ。いわば、科学の技術革新を単純に妄信していたと言えるだろう。戦争抑止のために原子爆弾を所持することが「世界平和」に繋がると言っている。どう読んでもそのように言っている。原子力発電にも、もちろん全面的に指示しているのは自明だ。なぜならそれは、原爆と同じ核分裂反応だからだし、原爆のほうが遥かに危険性が高いからだ。
 アインシュタインの論理が期せずして原子爆弾を生み出してしまったのだが、牧口はその原子力技術を人間の勝利かのように反射的に妄信してしまったがゆえに、それを御本尊の人間生命の源であると熱く語ってしまったのだろう。たしかにこの当時、おおくの人々が、科学によって宇宙をも制御(コントロール)できる時代になったと浮かれたのだろう。しかし、哲学者のハイデガーなどは原子力技術の問題点を同時期にすでに指摘していた。つまり、ハイデガーは人間の技術を妄信せず、人間は失敗をする生き物だという前提に立ち、原子力の危険さ、放射能の危うさを熟知していたがゆえに、冷静に問題を指摘できたのである。創価学会の過信と対極の謙虚さの明暗はこのときからすでにはっきりしていたようだ。

 このように、3.11を境にどちらが正しいかはもはや口に出す必要もなかろう。
 こうして創価学会の宗教の土台は崩れ去り、御本尊なるものはメルトスルーと共に甚大な害だけ垂れ流した。創価学会原発を否定できない理由が利権や癒着よりも、もっとコアな部分(核分裂技術は生命の定理であり、御本尊の行動化)であったのだ。
 あとは老朽化した原発廃炉と同様に、御本尊の廃棄物処理を待つのみとなってしまった。瓦礫処理問題と同等に各人の仏壇処理は難航することになるだろう。
 私が一貫して指摘してきた資本主義を盲目的に信じている宗教と言っていきたことがこれで証明されてしまった。私の理論がこのような形ではっきりと証明されてしまい、肩透かしを食らったようだ。なぜなら創設者みずからが、デタラメな宗教であるということを中心思想の著書に書き綴っており、それが将来において必ず証明されてしまうことを予言されておられたからに他ならない。あまりにもずさんな宗教理論で残念でしかたがない。

 原子力技術のイノベーションに浮かれてしまったことが致命的な失敗の原因なのだが、それは多くの人が陥る罠でもあるだろう。私も科学的根拠の証明にある種の絶対的真理を読み取ってしまっていた部分がある。しかし、「多様な意見を知る」ことで、そのような妄信が暴走してしまうのをある段階で押さえることが可能なはずだ。「ヘーゲル弁証法」のアウフヘーベンのように。

 幹細胞生物学者である八代嘉美は「私たちはどのような未来を選ぶのか」のなかでこのように述べている。引用してみよう。

 『社会には、科学に対するさまざまな幻想が存在している。その中で最も大きく、最も厄介なものは「科学には必ず正解がある」というものではなかろうか。』
 
 『実際に研究に関わるものは、先端の科学に「正解」と言われるものはないことを知っている。存在するのは、その時点で、最も合理的に説明できる「共通理解」でしかなく、その理解も反証が出現すれば覆るのである。』

 このように、八代は一般的に抱きがちな「科学の幻想」を丁寧に解きほぐそうとしている。著書のなかで四つの幻想として、「確かさの幻想」、「擬似確信の幻想」、「絶対的真理の幻想」、「応用可能性の幻想」があると指摘している。このような幻想は、一般的な知識ではブラックボックスとなるために生じてしまう。
 宗教の幻想も宗教科学という言葉があるように、宇宙理論を科学的に証明しようとする行為である。そのため原子レベルの話が多用される。しかし、そこには「絶対的真理の幻想」が横たわっており、「正解」はなく、また「共通理解」とよべるような社会的コンセンサス(合意)は得られておらず、その宗教のなかでしか通じない、いわば閉じたコミュニケーション内でだけ成立するゲームであるということを理解せねばならない。
 社会的な「共通理解」とは、開かれた言葉で論理的に整合性がとれているかどうかである。そこでは柄谷行人のいう「他者の他者性」に直面せざるを得なく、実践には「命がけの飛躍」が必要となる。

 最初に述べたように、「多様な価値観を認める」という主張をくり返し述べてきたわけだが、この文章が誰かの無理解な言動を少しでも和らげることができたり、<折伏>による心ない他者の否定を少しでも理解しようとする姿勢に向かわせたり、みずからの盲目的な<信仰>に対して少しでも考えてみる時間を設けてくれれば私の「対話」にも少なからず効果があったことになる。

 「基本的人権からなる多様な考えかたを認める」ことと、「信念を持つ」ことは矛盾しない。信念を持つということは、裏打ちされた論理が必要となる。その説明なくして一貫性のある信念は生まれないだろう。創価学会の中心思想である<価値創造>は、原子力革新を盲目的に信じることで成立していたことが実証されてしまった。これは「貨幣」制度(資本主義)の妄信と変わらない。「貨幣」制度もいずれ電子マネーへと意向するだろう(NFC機能など)。そういう意味において、創価学会の根本思想は普遍的妥当性を持っていなかった。
 あの時代は、原子力技術などの発展で、宇宙をも制御できるという高揚感に満ちた、人間を過信しすぎた社会であったのだろう。しかし、その浮かれた空気のなかでこそ、私たちは冷静に本質を見据えなければならない。バブルに浮かれて弱者の救済を無視してきた代償は、あまりにも大きかったことをこれからさらに実感することになるだろう。

 創価学会の信仰は、3.11により崩壊した。いや、正確には私たちは原子核分裂を3.11より以前に敗戦によって体験している。牧口は奇しくも広島原爆の9ヶ月前に亡くなっており、広島原爆投下による核爆発の「それ」を知らない。彼にとってのその惨劇は、「無価値なもの」としてありつづける。実際者に重きを置き、「利」のみを追求し、意識に上らないものは「無価値」であるとした牧口は、あろうことか核分裂反応を最高無上の定理であるとし、その行動化として御本尊もあると言い切っている。
 私たちは広島原爆により、すでに「価値論」の定理が破綻していることを知りえていた。つまり、戸田も池田も、信者たちも、「価値論」を読んでいたのであれば、この矛盾を知っていたはずである。創価学会にはこの矛盾への説明責任がある。
 むろん敗戦から10年以上経った1957年に、戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を示したことは知っている。しかし、根底の牧口の思想の間違いを認めたわけでもなければ、方向転換したという説明もない。戸田の行動はもしかすれば、切実なものだったのかもしれない。しかし、歴史が証明するように、創価学会(池田)はその宣言にも責任を持たず、公明党はテロ撲滅と核兵器所持を理由にイラク侵略に加担した。しかし、イラク核兵器はなかった。ジャーナリストの常岡浩介は「勝機はインド以西にあり」の論考のなかでこのように述べている。
 『大量破壊兵器開発疑惑に十分に答えなかったのは、米国やイスラエルへの敵意によるものではなかった。<中略>サダム・フセインが証言したのは、「すでに丸裸にされていることをイランに知られるわけにはいかなかった」という内容だった。イラクにとって、安全保障上の第一の脅威はイランだったというのだ』

 このように、アメリカの侵略戦争に加担した公明党は、イラク核兵器がなかったことが証明された時点で間違いを認め、謝罪や弁明の責任が確実にあったのではあるが、やはり何も言わなかった。そのことに多くの信者が無関心であることが、「世界平和」の無責任さを物語っている。

 以上のことからわかるように、創価学会は数々の致命的な失策をなんども重ねているが、釈明も弁明もしてこなかった。それは、学会員が現実を見ずにただ妄信し、自己啓発による私利私欲のために「世界平和」という言葉を冒涜し続けてきたことを意味している。このような現実を見ようとしない、意識しようとしない態度はゾンビのようにおぞましい。正論を投げかけてもまったく通じず、おそろしいほどの執念でドアを何度も叩いてくる。その度に関係性の溝は深まっていくばかりだろう。そして、理解の得られないものを頭がおかしい、罰が当たると排除して自己正当化を図る。
 隠蔽かイリュージョンか洗脳かもう何でもよいのだが、その程度のものなのか、宗教とは!

 一連の内容を受け入れるか、信じないのかはもちろん、あなた次第である。この過程を経て出た結論ならば、私はそれを「多様な価値観」として、個人のひとつの意見だとして、ゾンビ化した創価学会を、また尊重し受け入れなければならない。その折り合いの付け方は大切だ。
 3.11で浮き彫りになった日本社会の現実とは、じつは唯一の被爆国である私たち自身で築き上げてきた虚構の産物でもあった。おそらくは、私たちはそこからやり直さなければならない。

 最後にもうひとつだけ。「郡盲評像」(ぐんもうひょうぞう)という四字熟語がある。意味は、数人の盲人が互いに象の一部を触りながらその物体を評するという意味だ。つまり、象は大きさの比喩で、盲人のように一部の観点から得た事象だけで、それを真実だと思い込む滑稽さを表している。
 かんたんに言ってしまえば、箱の中身を当てるクイズのようなものだ。目隠しをした回答者はそれを必死に当てようとする。たとえば、象の「鼻」を触ったとして、「これは大蛇に違いない」と回答すれば、視聴者はそのおかしな回答を聞いて、馬鹿だの阿呆だのと言って笑うだろう。

 この「郡盲評像」という四文字で、創価学会の単一的な思考を表せないだろうか。「世界平和」のような手垢のついた抽象的な言葉のイメージに、“なんとなく”惑わされてしまうのではなく、世界の全体像をできるだけはっきり描いてみてほしい。どうか多様に開かれた視野を。